揺れる日常
夕方、リビングの空気が張り詰めていた。
母はソファに座ったまま、じっと天井を見上げている。
「帰らにゃ……うち、帰るんよ」
美咲が声をかける。
「母さん、今日はもう外には行かんで。ごはん食べよう?」
母は首を振った。
「……ごはん? 誰が作ったん?」
その目には、混乱と少しの不安が映っていた。
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母は立ち上がり、玄関の方へ歩き出した。
手すりや家具につかまりながら、ゆっくりと。
「止めて……帰るんよ」
父が近づく。
「母さん、そんなに慌てんでええじゃろ。家はここじゃ」
けれど母の手は父の腕を振りほどいた。
直樹も手を差し伸べる。
「母さん、夜道は危ないよ。誰もついていけんけぇ」
母は息を荒くして振り返った。
「……ついてきて! あんたらもおるじゃろ!」
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その瞬間、家族の緊張がピークに達した。
美咲は深呼吸して、母の手をそっと握った。
「母さん、怖いんじゃね? でも、みんなここにおるよ」
母の手が一瞬止まり、指先が震えた。
ゆっくりと座り直す。
「……うん、ここにおる」
その声には、小さな安堵が混じっていた。
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夜、布団の中で母は眠った。
リビングに戻った父と直樹は、互いに顔を見合わせた。
「……もう、限界かもしれん」
「でも、まだ支えられる」
その言葉が、重くもあたたかい。
家族は疲れながらも、まだ手を取り合える。
母のために、互いに壊れないように支え合うしかなかった。




