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記憶のかけらと家族のかたち  作者: 櫻木サヱ
崩れていく日常と、残された願い

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31/75

誰も悪くないのに

朝。

デイサービスの車が角を曲がって消えると、美咲はようやく大きく息をついた。

その顔には、疲れと罪悪感が入り混じっていた。


「ちょっとの時間でも、ほっとするわ……」

呟いた声は、誰にも届かない。


リビングのテーブルには、母が朝に残した味噌汁。

まだ湯気の残る椀の中には、具のない味だけが漂っていた。


昨夜も、母は眠らなかった。

「家に帰る」「お父さんが待っとる」と何度も繰り返し、玄関の鍵を叩いた。

直樹が止めても、父がなだめても、どうにもならなかった。

結局、朝になってやっと布団に入ったのは、美咲の声がかすれる頃だった。



午後、デイサービスから電話があった。

母がトイレで泣いているという。


「帰らなきゃいけんって言いながら、誰かを待っとるみたいで……」

受話器越しの声がかすかに震えていた。


迎えに行った美咲の姿を見て、母は驚いたように目を見開いた。


「……あんた、誰?」


その瞬間、美咲の世界が音を立てて崩れた。

車の中でも、母はずっと窓の外を見つめていた。


「お母さん、うちに帰らなきゃ……子どもが待っとるんよ」


その“子ども”が、今、運転席にいるのに。



家に戻ると、父が無言でテレビを消した。

「またか」と言いたげな表情。

でも言葉にはしない。

疲れているのは、みんな同じだから。


その沈黙の中で、直樹が立ち上がった。

「俺、仕事戻るけど……もう限界かもしれん」


その一言が、家族の空気をさらに重くした。


美咲は唇を噛み、母の寝室へ向かった。

布団の中では、母が小さく手を動かしていた。

「……おかあさん、ごはんできたよ」

その声は、もう昔の少女の声に戻っていた。



夜。

リビングで、美咲は父と二人きり。

テレビの青い光が、静かに二人を照らす。


「お前も無理するな」

父の声が低く響いた。

「母さんは……もう、戻らんのじゃろうな」


美咲は首を振った。

「うん。でも、まだ“母さん”はここにおるよ」


その言葉に、父は小さくうなずいた。

けれど、その目は少し赤かった。



母の部屋から、寝言が聞こえた。

「……みんな仲良うせにゃいけんよ」


家族の誰も、それを聞き逃さなかった。


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