誰も悪くないのに
朝。
デイサービスの車が角を曲がって消えると、美咲はようやく大きく息をついた。
その顔には、疲れと罪悪感が入り混じっていた。
「ちょっとの時間でも、ほっとするわ……」
呟いた声は、誰にも届かない。
リビングのテーブルには、母が朝に残した味噌汁。
まだ湯気の残る椀の中には、具のない味だけが漂っていた。
昨夜も、母は眠らなかった。
「家に帰る」「お父さんが待っとる」と何度も繰り返し、玄関の鍵を叩いた。
直樹が止めても、父がなだめても、どうにもならなかった。
結局、朝になってやっと布団に入ったのは、美咲の声がかすれる頃だった。
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午後、デイサービスから電話があった。
母がトイレで泣いているという。
「帰らなきゃいけんって言いながら、誰かを待っとるみたいで……」
受話器越しの声がかすかに震えていた。
迎えに行った美咲の姿を見て、母は驚いたように目を見開いた。
「……あんた、誰?」
その瞬間、美咲の世界が音を立てて崩れた。
車の中でも、母はずっと窓の外を見つめていた。
「お母さん、うちに帰らなきゃ……子どもが待っとるんよ」
その“子ども”が、今、運転席にいるのに。
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家に戻ると、父が無言でテレビを消した。
「またか」と言いたげな表情。
でも言葉にはしない。
疲れているのは、みんな同じだから。
その沈黙の中で、直樹が立ち上がった。
「俺、仕事戻るけど……もう限界かもしれん」
その一言が、家族の空気をさらに重くした。
美咲は唇を噛み、母の寝室へ向かった。
布団の中では、母が小さく手を動かしていた。
「……おかあさん、ごはんできたよ」
その声は、もう昔の少女の声に戻っていた。
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夜。
リビングで、美咲は父と二人きり。
テレビの青い光が、静かに二人を照らす。
「お前も無理するな」
父の声が低く響いた。
「母さんは……もう、戻らんのじゃろうな」
美咲は首を振った。
「うん。でも、まだ“母さん”はここにおるよ」
その言葉に、父は小さくうなずいた。
けれど、その目は少し赤かった。
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母の部屋から、寝言が聞こえた。
「……みんな仲良うせにゃいけんよ」
家族の誰も、それを聞き逃さなかった。




