昔話のすれ違い
午後の光がやわらかくリビングを満たす中、陽子は古いアルバムをテーブルに広げていた。ページをめくる指先は少し震えている。写真の一枚一枚に、彼女の記憶と思い出が重なり合う。
「昔はね…直樹、君が毎朝泣いて…」母がぽつりと口を開いた。
直樹は眉をひそめ、思わず声を荒げた。
「え?俺が…?」
記憶の食い違いに苛立ちが湧く。しかし、美咲がすぐ間に入る。
「でも母さん、覚えているのはその時の気持ちなんだよ。事実かどうかじゃなくて、母さんがそう感じていたことが大切なの」
母の目には、過去の光景が揺らめいている。笑顔、涙、抱きしめた記憶。曖昧でも、その感情のリアルさは確かに残っているのだ。直樹は深く息をつき、少しずつ苛立ちを収める。
「そうか…」彼は静かにアルバムを覗き込む。母の手が写真をなぞる。指先の力は弱く、震えている。それでも母は、懐かしい記憶を一生懸命手繰り寄せようとしているのだ。
美咲はその様子を見て、優しく声をかける。
「大丈夫、母さん。どんな話も、私たちはちゃんと覚えているから」
陽子の目から小さな涙がこぼれ落ちる。
「ありがとう…でも、忘れちゃうことも多いのね」
直樹はそっと母の肩に手を置く。苛立ちや不安はまだ残るが、それ以上に、母の心に寄り添う優しさが勝った瞬間だった。
アルバムの写真には、過去の家族の笑顔がぎっしり詰まっている。遠い日の朝食、庭で遊ぶ子どもたち、祭りでの笑顔――その一つ一つが、今の混乱を和らげる光になる。
「覚えてることも、忘れちゃうことも…それでいいのよ」美咲が小声で囁く。
母は微笑み、直樹も頷く。曖昧な記憶の中にも、確かな愛情と絆は残っているのだと、家族全員が改めて感じた。
窓の外には、柔らかい日差しの中で揺れる木々と、穏やかな風の音。リビングの中に漂うのは、怒りでも苛立ちでもなく、温かい家族の時間だった。
小さなすれ違い、混乱、記憶の欠落――
それでも、笑い、抱きしめ、思い合うことで家族の絆は壊れずにいられる。
午後の静けさの中で、三人はそんな当たり前だけれど尊い時間を共有していた。




