帰る場所を探して
昼過ぎ、母は静かに家を出た。
洗濯物を取り込んでいた美咲が気づいたときには、
玄関のサンダルが一足、なくなっていた。
「母さん!」
道路に出て、あたりを見渡す。
日差しがやけにまぶしくて、目がうまく開かない。
角を曲がった先、白い帽子が見えた。
母だった。
まるで、昔から知っている道をたどるように歩いていた。
⸻
「母さん! どこ行くの!」
「帰るんよ。あの坂の上の家に」
「坂の上って……どこ?」
「お父さんと暮らしとった家。炊事場の横に柿の木があった」
美咲の心臓が速くなる。
その家は、母が少女時代を過ごした古い集落のことだと気づいた。
車で二十分はかかる場所だ。
「母さん、そこはもう誰もおらんのよ」
「おるよ。お父さんも、お母さんも。
あんたもおるじゃろ? 小さいときのあんた」
母の瞳には、遠い昔の光景が映っている。
美咲にはそれが見えなかった。
でも、その言葉に抗うこともできなかった。
⸻
父と直樹が駆けつけた。
「母さん、帰ろう。あの家はもう……」
父の声が震えた。
「もうないんじゃ」
母は立ち止まった。
風が吹いて、帽子が飛びそうになる。
「……ない? うちの家が?」
「十年以上前に壊したんじゃ。
おまえが病気したときに、わしらで見に行ったろ」
母の顔に、ゆっくりと影が落ちた。
「ほうじゃったかねぇ……。
でも、うちは帰らにゃいけんと思っとったんよ」
その声は、まるで幼い子どものようだった。
直樹はそっと母の肩を抱いた。
「母さん、帰る場所はここにあるけぇ」
「……ここが、うちの家?」
「そう。みんなおるじゃろ」
母は小さく頷いた。
その目の奥に、遠い記憶の光がまだ揺れていた。
⸻
その夜、母は穏やかに眠った。
寝顔は静かで、まるで何十年ぶりに安心したようだった。
父は寝室のドアを少し開けて、その姿を見つめた。
「……帰る場所、守らにゃいけんな」
誰に言うでもなく、そう呟いた。




