遠い家の灯
デイサービスの送迎車のドアが開くと、母は少しぼんやりした顔で降りてきた。
「お母さん、今日どうだった?」
美咲が声をかけると、職員の佐伯さんが小さく首を傾げた。
「今日はね、子どもの頃の話をたくさんされてました。
“お父さんが怖かった”って」
母は聞いていないふりをして、靴を脱ぎながら言った。
「怖うなかったよ。ただ、怒るときはよう怒りよった」
その笑顔の奥に、かすかな震えがあった。
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夕食のあと、母はテレビを消して、急に話し出した。
「昔なぁ、家に帰るのが怖い時があったんよ」
父が新聞を読んでいた手を止めた。
「どしたんじゃ」
「お父さんが帰ってくると、家の空気が変わるんよ。
畳の上に座っとるだけで、誰も笑わんようになってな」
母は膝の上で指を組んだ。
その手が、少し震えていた。
「でも、うちは頑張っとったんよ。
ごはん炊いて、掃除して、怒られんようにして。
あのときも“ちゃんとせにゃいけん”思っとった」
直樹は黙って聞いていた。
横で美咲が小さくつぶやく。
「……それで、今も“帰らなきゃ”って思うんかもしれんね」
母がはっとしたように顔を上げた。
「そうかもしれん……。
あの家、まだ片づけができとらんのよ。
お父さんに叱られる」
その「お父さん」は、もう何十年も前に亡くなっている。
でも、母の時間の中ではまだ生きているのだ。
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その夜。
母は寝室で、布団の中からかすかに呟いた。
「……ごめんなさい。もうせんけぇ、叱らんで……」
その声を聞きながら、直樹は廊下で立ち尽くした。
どうすることもできなかった。
父も美咲も眠れなかった。
リビングの明かりを落としても、
遠くで聞こえる母の寝言が、心を締めつけた。
⸻
翌朝。
母は晴れやかな顔で起きてきた。
「今日はええ夢見たんよ。お父さんが笑っとった」
その言葉に、父は小さく頷いた。
「そうか。よかったな」
ただ、その笑顔がどこか遠い場所を見つめているようで、
胸の奥がひりついた。




