夜の嵐
その夜、家の空気が重かった。
テレビの音も遠く感じる。
母は夕食を食べ終えると、落ち着かない様子で立ち上がった。
「もう帰らにゃ」
誰に言うでもなく、玄関の方へ歩き出した。
「母さん、もう家じゃろ?」
直樹が声をかけても、母は耳を貸さない。
「ここはうちじゃない。子どもが待っとるんよ。あの坂の上の家に」
美咲が慌てて立ち上がった。
「母さん、落ち着いて。ほら、お茶飲もう?」
けれど母は振り払った。
湯呑みが床に落ち、ぱんっと音を立てて割れた。
「なんで止めるん! うちは帰るだけじゃのに!」
母の声が、夜の家を震わせた。
リビングの時計が、やけに大きく時を刻む。
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「お義母さん、もう夜ですよ」
父が低い声で言った。
「みんな寝る時間じゃ。どこへ行く言うんか」
「あなたは知らんのんじゃ。うちの家はここじゃない!」
母が怒鳴るのを見て、直樹の手が震えた。
父は眉をひそめ、つい声を荒らげた。
「いい加減にせぇ! もう限界じゃ!」
その瞬間、母は怯えたように身をすくめた。
手に持っていたカーディガンをぎゅっと握りしめて、小さくなった。
「……怖い。帰らせて」
泣き出した母を見て、父も美咲も、何も言えなかった。
さっきまで怒鳴っていた父の目にも、涙が光った。
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やっと母が落ち着いたのは、深夜を過ぎてからだった。
布団に入った母の背中を、美咲がそっと撫でる。
「母さん、ここが家じゃけぇね」
「……そうなん?」
「そうよ。うちの庭には桜の木があるでしょ?」
「ああ、あれはきれいじゃなぁ」
母の声が、少しずつ遠のいていった。
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リビングに戻ると、父がソファに座っていた。
両手で顔を覆いながら、ぽつりと呟いた。
「……わしが、いちばん信じたくなかったんじゃ」
「え?」
「おまえらが“認知症じゃ”言うても、わしは違う思いたかった。
けど、今夜見て……もう、ようわかった」
直樹も美咲も、何も言えなかった。
ただ、静かに父の隣に座った。
三人の間に、長い沈黙が落ちた。
遠くで、虫の声がしていた。




