デイの朝
朝の光がやさしいのに、胸の奥は重かった。
母の支度を手伝いながら、美咲は何度も時計を見た。
自分も仕事に行かなくちゃいけない。
けれど、母が「今日は行かん」と言い出すたびに、時間が止まる。
「行かんでもええじゃろ。うち、まだ元気なんじゃけぇ」
「母さん、行ったら友達おるじゃん。カラオケもあるし」
「そがぁなもん、知らん人ばっかりじゃけぇ」
支度したバッグを抱えたまま、母は玄関に座り込んだ。
目の奥には涙が溜まっていた。
美咲はその顔を見ると、何も言えなくなった。
「今日は行こう。ちょっとだけでも」
直樹が後ろから声をかける。
「母さん、昨日夜に外行ったろ? 昼は明るいし、安心じゃ」
母はしばらく黙っていたが、やがて立ち上がった。
「……ほんなら、ちょっとだけよ」
⸻
デイサービスに着くと、スタッフの佐伯さんが笑顔で迎えてくれた。
「おはようございます、お母さん。今日もお花のクラフトの日ですよ」
「……お花、なにそれ」
「好きな色で折るんです。きっと上手にできますよ」
母は小さくうなずいたが、その目はどこか遠かった。
美咲が帰ろうとしたとき、母が急に立ち上がった。
「待って! あんた、どこ行くん」
「仕事。夕方迎えに来るけぇ」
「うちも行く! 一緒に行く!」
職員がやさしく肩を押さえる。
「大丈夫ですよ。少ししたら落ち着かれますから」
その声に、母は混乱したように手を振り払った。
「触らんで! 帰らせて!」
その叫びに、美咲の目から涙がこぼれた。
振り向けなかった。
後ろで母が泣く声が聞こえても、足が止まらなかった。
⸻
夕方、迎えに行くと、母は穏やかな顔でテーブルを拭いていた。
「お母さん、どうだった?」
「ここ、掃除手伝ってあげたんよ。あの若い子、えらいええ子じゃ」
まるで、朝のことなどなかったように笑っている。
佐伯さんがそっと耳打ちした。
「午前中は少し不安定でしたけど、昼からは落ち着かれました」
その言葉に、美咲は小さく頭を下げた。
帰りの車の中で、母は窓の外を見ながら言った。
「やっぱり、家がええねぇ」
その一言が、美咲の胸を締めつけた。
「うん、母さんの家じゃけぇ」
そう答えながら、涙をこらえた。




