夜を抜ける母
十月の夜風が冷たい。
玄関のドアには二重の鍵、サッシには補助錠。
なのに、母は今夜もいない。
リビングの明かりの下、直樹は靴も履かずに外を探していた。
「母さん!」
声が夜に吸い込まれる。遠くから、犬の鳴き声が返ってきた。
裏の畑道を曲がった先、白いカーディガンが見えた。
母は裸足だった。
月明かりに照らされて、まるで夢の中を歩いているようだった。
「どこ行くの!」
息を切らして駆け寄ると、母は振り返った。
「帰らにゃいけんのよ。お父さんが待っとるけぇ」
その声は優しくて、悲しいほどまっすぐだった。
直樹は、何も言えなかった。
腕を掴むと、母は少し困ったように笑った。
「こんな夜中にどこ行くん?」
「うち、あの家に帰らにゃいけん。あんたも早よ寝りんさい」
連れ帰る途中、母は何度も後ろを振り返った。
まるで、暗闇の向こうに誰かが本当に立っているかのように。
⸻
家に戻ると、父が居間のソファに座っていた。
「またか……」
新聞をたたんだまま、深くため息をついた。
「もう鍵もダメ。どうしたらええんじゃろ」
美咲が泣きそうに言う。
「デイサービスの人も言ってたよ、帰宅願望が強い人は夜が怖いって」
「……怖いんは、わしらのほうじゃ」
父はそう呟くと、立ち上がって寝室に消えた。
その背中を、直樹は見送ることしかできなかった。
⸻
翌朝。
母は何も覚えていなかった。
「なんでそんな顔しとるん? また泣いたん?」
いつものように笑って、朝ごはんをよそう。
その姿を見ていると、胸の奥が痛くなった。
昨日の夜のあの寒さも、母の足の冷たさも、
全部、夢みたいに消えていく。
でも、現実はそこにある。
今夜もまた、母はどこかへ行こうとするのかもしれない。
家族の誰かが、また眠れない夜を過ごすのかもしれない。
けれど、直樹は小さく息を吐いた。
「母さん、今日は一緒に風呂入ろうや」
そう言うと、母は子どもみたいに目を輝かせた。
その笑顔が、もう少しだけ、家族を支えてくれた。




