消えた鍵
昼下がりの柔らかな日差しがリビングに差し込む。カーテンの隙間から差し込む光は、午後の静けさをさらに優しく包み込み、窓際に置かれた鉢植えの葉をゆらす。
しかしその穏やかな光景とは裏腹に、陽子の表情には焦りが浮かんでいた。
「鍵が…ない…」
小さな声でつぶやく母。その手は、かすかに震えている。
直樹はすぐに腰を浮かせ、カバンの中を探る。ソファの下、棚の隅もくまなく見てみるが、鍵はどこにもなかった。
美咲がそっと母の手を握り、優しく声をかける。
「大丈夫よ、お母さん。一緒に探せばきっと見つかるから」
母は微かにうなずくが、眉間には小さな皺が寄っている。記憶が混乱するたびに、苛立ちと不安が入り混じるのだ。直樹はため息をつきつつも、母の肩をそっと抱く。冷たい手の感触が胸に刺さるようで、心の奥がぎゅっと締め付けられた。
「この辺に置いたはずなんだけど…」母はカゴの中をもう一度探しながら、曖昧な記憶を必死に手繰り寄せる。
直樹は少し苛立ちながらも、心の奥で母を責めることはできなかった。母が歳を重ね、認知症の兆しが見え始めている現実を、彼自身も受け入れつつあったからだ。
美咲はそんな兄の心を察し、そっと微笑む。
「大丈夫だよ、直樹。母さんが困っているとき、私たちがそばにいる。それだけで十分助けになるんだから」
陽子の目がふっと輝きを取り戻す。たった一言の安心感が、どれほど心を軽くするか。
直樹もまた、その瞬間に胸の奥の重さが少しだけ和らぐのを感じた。
やがて、鍵は冷蔵庫横の小さなかごの中で見つかった。母が無意識に置いたのだった。
「ほら、あったでしょ?」美咲が微笑むと、母も安堵の笑顔を浮かべた。
直樹は小さく肩をすくめ、思わず苦笑する。日常の小さな混乱も、家族で協力すれば乗り越えられるのだ。
午後の光が部屋を満たす中、三人は一緒にテーブルに座る。母の手を握ると、かすかに冷たさを感じるものの、その温もりは確かに存在していた。
鍵一つの小さな騒動の中に、家族の絆の強さ、そして日常の優しさを改めて感じる。
「ありがとう…ほんとに、ありがとうね」母はそっと直樹と美咲に微笑みかける。
直樹はその微笑みに、言葉にならない思いを胸に刻んだ。
小さな混乱も、家族の優しさがあれば、愛おしい時間に変わる――そんな当たり前のことを、今日もまた改めて感じる午後だった。




