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記憶のかけらと家族のかたち  作者: 櫻木サヱ
揺れる日常、支え合う日々

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19/74

嵐の夜~家庭内の混乱とその余波

夜風が窓を揺らし、町の灯りが遠く滲む頃だった。夕食の片づけを終えたあと、家の中には一時的な静けさが戻っていた。だが、その静けさは長くは続かなかった。


陽子がキッチンのテーブルに座り、ふと手を止めた。小さな皿を指で触りながら、眉をひそめる。胸の奥から何かがこみ上げるように、手が震え、顔つきが急に強張った。

「ここじゃない……ここじゃないのよ!」陽子の声はいつもの口調とは違い、刺すように鋭く、家の空気を切り裂いた。


直樹は鍋を拭く手を止め、振り向く。美咲は食器をカウンターに置き、すぐそばに駆け寄る。浩一は椅子から立ち上がり、瞬間的に状況を図ろうとするが、言葉が見つからない。

陽子は立ち上がると、慌てたように家の中を行ったり来たりし始めた。椅子を乱暴に押しやり、引き出しを開け閉めし、置かれた花瓶に手を伸ばす。指先はぎこちなく、力任せに物を掴む。時折、自分自身に向かって罵るように「戻らないで」「行かないで」と口にする。


「母さん、落ち着いて!」直樹の声は抑え込まれた恐怖と必死さを含んでいる。だが陽子はその声を聞くと、かえって怯えを募らせ、荒い息をついた。目には混乱と恐れ、そして昔の記憶が暴風のように交錯している。

美咲は母の手首を優しく握ろうとしたが、陽子は反射的に手を振り払い、傍にあったクッションを投げつける。クッションは壁にぶつかり、わずかな破片が床に散る。思いがけない力に、美咲は一瞬たじろぐ。だが、すぐに自分を取り戻し、距離を取りつつ母を落ち着かせる言葉を繰り返す。


浩一は深い息を吸い、家族の安全を最優先に考えた。陽子がさらに取り乱したら、家族や本人が怪我をする恐れがある。だが怒鳴って押さえつけるような方法は逆効果だと彼も知っている。否認していた自分の中に、初めて本気の恐れと責任感が芽生えた瞬間だった。

「直樹、美咲、落ち着け。窓とドアを全部閉めて。刃物はすぐに片付けて、危ないものは手の届かないところに隠してくれ」と浩一は短く指示を出す。声には厳しさではなく、冷静さと決断が混ざっていた。


指示に従い、二人は素早く行動する。包丁はまな板ごと片付けられ、ガラスの食器は丈夫な箱に入れられてテーブルの上から下ろされた。窓は鍵がかかるまで閉められ、外へ出る可能性を排除する。家庭内の混乱に備え、誰もが即座に安全確保を最優先にした。


陽子は手近にあったスプーンを掴み、「行くのよ!」と何度も繰り返す。彼女の手の動きは速く、かすれた声は夜の空気に反響した。直樹は近づきすぎないよう注意しつつ、母の目を見つめて語りかける。

「母さん、ここがあなたの家だよ。安心して。僕だよ、直樹だよ。危ないことはさせないから」声を低く、ゆっくり。言葉を噛みしめるようにする。急かさず、感情をぶつけず、ただ穏やかに伝える。


美咲は母が掴んでいたクッションをそっと取り、座布団を母の前に差し出した。座る場所を示し、そこで一緒に呼吸するように促す。陽子の動きは幾分か和らいだが、それでも瞳にはまだ遠くを見つめる焦りが残る。幼いころの記憶と現実が交錯し、彼女の内面で何かが壊れかけているのが伝わってくる。


家族は、ただ叱るのでもただ受け入れるのでもなく、反応を抑えつつ安全を確保し、陽子の感情の波が少しでも穏やかになるように言葉を選んだ。浩一は静かにソファに座り、母の動きを見守る。夫として、かつては「まだ大丈夫だ」と強がっていた自分が、今は母のために手を動かしている。胸の奥には戸惑いと痛み、責任の感情が渦巻いていた。


時間がゆっくりと過ぎる。陽子の呼吸は荒く、頬は紅潮したり青ざめたりを繰り返す。過去の記憶がフラッシュバックするのか、ふと手を伸ばして家族の写真に触れたり、古いラジオのスイッチを探したりする。彼女が掴まんだその手は、確かに何かを求めているように見えた——安心、繋がり、帰るべき場所。


やがて、陽子は突然肩を落としたかのように力が抜け、小さなすすり泣き声をあげる。声の切れ端が、やっと現実へ戻るための合図になった。直樹はそっと膝をつき、母の目を見ながら言葉をかける。

「大丈夫だよ、母さん。ここにいるよ。僕らがいるよ」その声の端には、声にならない怒りと、深い愛情が混ざっていた。


美咲は涙をこらえながら、母の肩に寄り添う。なぜ母がこうなるのか、なぜ家族はもっと早く手を打てなかったのか——後悔が胸を刺す。しかし、その後悔はただ自分を責めるためのものではなく、これからの対応を変えようという強さへと変わっていく。


翌朝になっても、家の中の空気は完全には元に戻らなかった。食卓に座る面々の顔には疲労の色が濃く、昨夜の出来事の余韻が残る。浩一は朝食を運びながら、無言で皿を並べる。否認していた彼も、昨夜の暴れを目の当たりにして考えを改めざるを得なくなっている。言葉少なに、だが確かな決意がその瞳に宿る。


「昨夜は…すまなかった。もっと早く気づいてやれなかった俺の責任もある」浩一は小さな声で言った。声には厳しい自己批判と、家族を守ろうという意思が混ざっていた。直樹はその言葉を聞き、少し顔を緩める。父が初めて真正面から向き合おうとしていることが、どれほど家族の支えになるかを直感したのだ。


家族は話し合った。今後の家庭内での安全対策、夜間の見守りの導入、家の中の危険物を徹底的に排除するリスト。加えて、陽子の精神的な負担を軽くするための工夫——静かな音楽、落ち着く匂い、馴染みのある物や写真を目につく場所に置くこと。デイサービスやケアマネに昨夜の状況を報告し、専門家からの助言を仰ぐことも決められた。浩一はその合意の中で、ようやく口を開いた。


「俺も、積極的に手伝う。仕事の時間を調整するか、交代で家にいるようにする。母さんを一人にしない。否認してた自分を恥じるが、今は行動するしかない」その言葉には、真剣さと責任があった。


陽子は一方で、翌日の朝、申し訳なさそうに父と子に小さな声で言った。

「ごめんなさい…私、何か変なことして…」しかしその目には、自分がなぜそうなるのか説明する言葉を見つけられない無力感が宿っていた。


家族は謝罪の言葉を受け止め、叱責ではなく寄り添いの態度を選んだ。暴れたことに怒るのではなく、どうすれば次にこうしたことが起きないようにできるかを一緒に考える。責め合いは何も生まない。代わりに、小さな実務的な手順と心の準備が生まれる。


日々の中で、家は少しずつ変わっていった。キッチンの刃物は鍵付きの引き出しへ収納され、ガラス製品の配置は見直され、夜には玄関に簡易のセンサーライトとアラームが取り付けられた。浩一は仕事のシフトを調整し、週に何度か家にいるようにした。直樹と美咲も交代で夜の見守りに入る。家族のスケジュールは忙しさを増したが、皆が互いに支え合うことで負担は分かち合われていった。


だが何よりも大切だったのは、言葉の選び方と態度だった。陽子が暴れた夜、彼らは恐怖と動揺の中で最善を尽くした。その経験は苦しく悔しい記憶として残るだろうが、同時に家族を変えるきっかけにもなった。否認から受容へ、孤立から協力へ。荒れた夜は、やがて家族の絆を深める転機へと変わっていった。


窓の外に月が昇るたび、家の中では小さな注意と少しの準備が積み重ねられる。何度かの嵐を乗り越え、家族は再び静かな時間を取り戻す。ただし、彼らはもう以前のような無関心ではない。母を守るために、互いに声を掛け合い、小さな疲労を分かち合いながら、日々を送っていくのだった。


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