忘れた筈の絆
朝の光が差し込むリビングで、母・陽子はカーテン越しの陽射しに目を細めて座っていた。デイサービスに行く前の朝食だ。
「今日は…どこに行くんだっけ…?」母は少し戸惑った様子でつぶやく。
直樹は資料を手に、優しく説明する。
「今日はデイサービスだよ。スタッフの皆さんと一緒に過ごそう」
母は小さくうなずき、箸を握る。だが、その目はどこか遠くを見つめている。昨日の出来事や、家で過ごす時間の記憶が入り混じる感覚なのだろう。
デイサービスに到着すると、スタッフがにこやかに迎える。母は一瞬戸惑うが、顔をほころばせて手を振る。
「こんにちは、陽子さん。今日は手芸の日ですよ」
母は覚えているはずの手芸も、最初は手が止まる。色紙を持ち、のりを使おうとするが、手が迷う。周りの利用者の楽しそうな声に気持ちが引っ張られ、ふっと昔の記憶が蘇る。
「そういえば…昔、子どもたちと一緒に工作したことがあったな…」母は小さくつぶやく。
直樹はその言葉に耳を傾け、隣で見守る。
「覚えてるんだ、母さん。昔の楽しかった思い出を思い出せるんだね」
美咲もそっと手を添え、母の不安を和らげる。
「大丈夫よ、母さん。ゆっくりでいいの」
午後、ケアマネージャーが訪問する。母の様子やデイサービスでの反応を報告し、夜間の見守りや家での安全対策について相談する。
浩一は最初、聞き流すように座っていたが、母の目の虚ろさや手の震えを見て、否認していた気持ちが揺れる。
「…やっぱり、専門家に相談して正解だな」小さくつぶやき、子どもたちと視線を交わす。
母は手芸の作品を完成させると、満足そうに笑う。その笑顔には、家での安心と、外での刺激、両方の記憶が混ざった温かさが漂っていた。
直樹は胸の中で思う。
「母さんの記憶は揺れているけど、こうして一緒に過ごす時間が、少しずつ日常を支えているんだ」
夕方、家に帰る車の中で母は窓の外をじっと見つめる。
「やっぱり…家が一番落ち着くわ」小さくつぶやくその言葉に、直樹も美咲も、浩一も胸が温かくなる。
夜、家族は再びリビングで顔を合わせる。母の安心した顔、夫の少しずつ変わる態度、子どもたちの優しさ…すべてが、今日という一日を支えていた。




