第二話 消された記憶
卒業式が終わった午後、俺はそのアルバムを鞄に入れて、まっすぐ家に帰った。
玄関の戸を開けたとき、台所から「おかえりー」という母の声がした。
だけど、俺はそれに答えることなく、二階の自分の部屋に駆け上がる。
制服のままベッドに倒れ込むと、鞄から卒アルを取り出して、もう一度あのページを開いた。
三年二組、俺のクラス。
そこに並ぶ顔、顔、顔。そして──真っ黒に塗りつぶされた一人分のスペース。
『──おき みお』
「青木澪……」
その名前を声に出すと、何かがこみ上げてきた。
忘れたわけじゃない。忘れたくなかった。だけど、思い出すのが怖かった。
彼女の顔も、声も、思い出のはずなのに、どこか霞がかったフィルム越しのようにぼんやりとしている。
青木澪。俺のクラスメイトだった。
たしか、中学二年の冬に転校してきて──
……そう、三年になる前に、またどこかへ転校していった。
それだけのこと?
いや、違う。そんな簡単に説明できる関係じゃなかった。
彼女のことを、俺は──
その瞬間、部屋のドアがノックされた。
「悠翔、ごはんできたわよー。あんた、制服のままでベッド乗らないの!」
「……あとで食べる」
そう言って声を遮る。いまはとにかく、アルバムのことが気になって仕方なかった。
俺はクローゼットを開け、昔使っていた段ボール箱のひとつを引っ張り出す。
中学二年のときのプリント類や行事の写真、捨てられなかった思い出の品が雑多に詰まっている。
その奥に、小さな封筒を見つけた。
手に取った瞬間、息をのむ。
白い封筒に、繊細な文字でこう書かれていた。
『月島くんへ』
──澪の字だ。
その瞬間、記憶の断片がパチン、と弾けた。
思い出した。
この手紙は、澪が転校する前日、俺の机にそっと置いていったものだ。
けれど俺は、その手紙を開けることができなかった。
読むのが、怖かった。
そこに何が書かれているのかを想像するだけで、胸が痛くなった。
今なら、開けられる気がする。
卒業の日に、彼女の名前を再び見つけてしまった今なら──
震える指先で、封を切る。
中からは、便箋が一枚だけ、丁寧に折られて入っていた。
だけど。
そこには、何も書かれていなかった。
便箋は、真っ白だった。
「……え?」
思わず、便箋の裏も確認する。インクのにじみすらない。
まるで、誰かがわざと文字を消したような──いや、最初から何も書かれていなかったのか?
だけど、俺は知っている。この手紙には、ちゃんと“言葉”が込められていたはずだ。
澪は何かを伝えようとして、それでも最後の一歩を踏み出せなかった。
あるいは、伝えようとした言葉が、もう届かないとわかっていたのかもしれない。
「……なんで、俺、読まなかったんだよ」
思わず、声に出た。
そのときの自分を、殴ってやりたい気持ちだった。
たった一枚の便箋が、時を越えて胸を刺す。
机の上に置いたままの卒アルをもう一度手に取る。
ページをめくる。澪の名前が消されたページ。
でも、そこに確かに“いた”という痕跡が、俺の手の中に残っている。
──どうして、彼女は卒アルから消されたのか。
──なぜ、何も書かれていない手紙を、俺に託したのか。
もう終わったはずの中学生活。
だけど、俺の中で、何かがまた動き出していた。
そして、このまま終わらせちゃいけないと思った。
たとえ“過去のこと”だと誰かに言われても、
あのとき伝えられなかった言葉を、今こそ俺が見つけ出したい。