第一話 塗りつぶされた名前
卒業式の朝、教室には、いつもと違う静けさが満ちていた。
色とりどりの花が飾られた黒板には、先生たちの達筆で「卒業おめでとう」と書かれている。
誰かが描いたと思しき、似顔絵まじりのチョークアートもそこに添えられていた。
いつもなら騒がしくて落ち着かないこの教室が、今日だけは、妙に神聖な場所に見える。
──もう、ここにみんなで集まることはないんだ。
そんなことを考えていたら、胸の奥にぽっかりと穴が開いたような気がした。
だけどその寂しさを、俺はうまく言葉にできない。
クラスメイトの何人かが記念撮影をしているのを横目に見ながら、俺はひとり、自分の机に向かってぼんやりと座っていた。
「月島、お前、最後まで地味だなあ」
唐突に背後からかけられた声に振り向くと、そこには写真部の顧問、高木先生がいた。
スーツ姿なのに、もうすでにネクタイを緩めていて、いかにも“卒業式モード終了”という顔をしている。
「写真部の片付けしてたら、これ出てきてさ。持って帰ってくれ」
先生が俺の机にどさりと置いたのは、学校のマークが印刷された段ボール箱だった。
「……なんですか、これ」
「部室に残ってた荷物の中身。現像済みのフィルムとか、去年の文化祭の写真とか。お前、部長だったろ? 一応確認しといてくれ」
「はい、まあ……わかりました」
俺は渋々うなずいて、箱のふたを開けた。
中には、たしかに写真部の活動で使った道具やプリントした写真の束、空になったフィルムケース、名もなきメモ類が乱雑に詰め込まれていた。
その中に、一冊の重い本が埋もれていた。見慣れた紺色の装丁。
表紙には銀色の箔押しで「卒業アルバム」と書かれている。
「ああ、それも。予備かなんかだろうな」
高木先生が覗き込む。
「卒アル、名前の間違いとかあったとき用に、予備を何冊か刷るんだ。持って帰っていいぞ」
「……じゃあ、ありがたくもらっておきます」
俺はアルバムをそっと箱から引き抜いた。ずしりとした重みが手のひらに伝わってくる。
卒業アルバム。
三年間の記憶が、すべて詰め込まれた一冊。
……の、はずだった。
ぱらり、とページをめくる。最初は校舎の全景写真。次に校長先生や教頭先生の顔写真と挨拶文。行事ページを飛ばして、クラスごとのページを確認する。
三年二組。俺たちのクラス。
整然と並んだ四十人の顔。
下には名前が書かれていて、個々の写真の下には、それぞれが選んだひとことメッセージが添えられている。
だけど──
「……え?」
俺の手が、止まった。
そこに、一人だけ、顔写真も名前も、真っ黒に塗りつぶされた生徒がいたのだ。
黒マジックで、ぐちゃぐちゃに。
ただのイタズラじゃない。
あきらかに、意図的に消されている。
しかもその塗りつぶされた部分は、印刷前の原版から加工されたように見える。
つまりこれは、「製本された時点」で、こうなっていた。
そのページをじっと見つめていると、妙な感覚に襲われた。
胸のどこかが、ちくりと痛んだ。
思い出したくない記憶に、手を伸ばしかけているような感覚。
けれど、その記憶が何なのか、うまく思い出せない。
誰だ、この子は?
どうして、名前も顔も、こんなふうに消されたんだ?
……というか、本当に「いた」のか?
ふと、ページの端に小さな違和感があった。黒く塗られた写真のすぐ隣。
ごくうすく、鉛筆でなぞったような痕跡。
よく目をこらして見ると──そこには、かすかに読める文字があった。
『──おき みお』
「青木……澪?」
口に出した瞬間、胸の奥で何かが跳ねた。
その名前を、俺は知っている。
いや、知っているどころじゃない。
俺は、彼女のことを忘れたことなんて、一度だってなかった。
だけど、どうして?
なぜ彼女は、卒業アルバムから消されたんだ。
俺たちと同じ教室にいたはずなのに。
みんなと一緒に、ここで笑っていたはずなのに。
──卒業の日、塗りつぶされた名前が、すべての始まりだった。