5.5話 青山志保①
6月28日 土曜日
青山志保はいつも通り16時から90分の授業を終えて、塾からの帰路につくところだった。しかし、すぐに帰る訳ではない。毎週土曜日は一緒に帰る相手がいるため、志保はその相手を待っている。
塾の出入口である自動ドアの前、いつもの定位置で待つこと5分。自動ドアの開く音を確認した志保は、いじっていたスマホの画面を切り、ポケットにしまった。待ち人が来たのだ。
「ごめん!志保、待った?」
「全然。愛花のためなら一生待つよ。」
「なにそれー。まあ私も志保のためだったらなんだってできちゃうけどねー。」
野田愛花。志保と同じ高島塾名古屋東校に通う同級生。中学校は違うものの、志保にとっては最も気を許している友達。
「愛花にそんなこと言われたら結婚したくなっちゃうよ。私、女やめようかな。」
「えー!志保は宇宙一可愛い女の子なんだから、私なんかのために女の子やめちゃだめだよ!」
「冗談冗談。」
「私が男の子になれば解決か!」
「いやいや、私は女の子の愛花が大好きだから。」
「うわー。じゃあどうすればいいんだ!?」
「ほら、もう帰るよ。愛花。」
志保は塾から10分ほど歩いた場所にあるマンションに住んでいる。愛花はその真向いの団地に住んでいる。そして、土曜日は2人の帰りの時間が同じであるため、志保は土曜日の帰り道を愛花とおしゃべりしながら帰る、ご褒美の時間と決めている。
「志保は明日暇?」
「ん?特に予定はないけど。」
「明日、うちに遊びに来ない?ちょっと相談とか、話したいことがあるんだよね。」
「今話せないようなこと?」
「うーん。長くなっちゃうかもしれないから。」
「わかった。何時に向かえばいい?」
「11時とかどう?お昼ご飯も用意しとくから!」
「そんな気を遣わなくてもいいのに。」
「相談に乗ってもらうから、そのお返しだよ?」
じゃあいいか、と志保は思った。
しかし、あのいつでも明るく元気な愛花が、相談とは。何かあったんだろうか。どうしたんだろう。志保の頭の中は愛花の心配で溢れていた。
6月29日 日曜日
11時に愛花の家に着くには10分前に志保は家を出れば間に合うのだが、はやる気持ちが志保を急かしている。
現在、10時20分。さすがに早すぎると志保も思い、玄関で手持ち無沙汰に佇んでいた。
「志保。まだ早いでしょう。落ち着きなさい。」
「お母さん。そうなんだけど・・・・・・」
「それとこれ、忘れずに持っていきなさい。」
志保の母は紙袋を志保に手渡した。娘が友人のお宅にお邪魔する、という状況を踏まえると、これは手土産が入っているのだろうと志保もあたりがついた。紙袋を受け取った志保は軽く中身を覗き、箱に「クッキー」の文字を見つけた。予想通り手土産だ。
「愛花ちゃんにこれ渡してね。お昼まで頂くんだから。ちゃんと愛花ちゃんの家の人にも挨拶するのよ。」
「わかってるよ。これ、ありがとう。いつ用意してたの?」
「昨日志保から聞いて朝、急いで買ってきたのよ。愛花ちゃんのお母さんにも、よろしくお願いしますってお電話してね。」
母親というのは本当に大変な仕事だ。志保はこんな細やかな気遣いができる人間になろうと密かに決意していた。
「ありがとう。お母さん。」
「帰りは何時くらいになるの?」
「夜ご飯までには帰ると思う。夜までご飯ご馳走になるのはさすがに。」
「じゃあ夜ご飯用意してもいいわね。帰る時は連絡しなさい。迎えにいくから。」
「・・・・・・私、もう中三なんだけど。」
「志保はただの中三じゃないでしょう?」
「・・・・・・」
はっきり言って、過保護じゃないだろうか。そう、志保は思っている。
「じゃあ、そろそろ行くから。」
「気を付けてね。いってらっしゃい。」
結局、志保は10時40分には愛花の家の前に着いてしまった。愛花に気を遣わせないよう、近くのコンビニで暇を潰そうか。志保がそんなことを考えている最中だった。愛花の家の窓が開き、志保を呼びかけた。
「志保!早かったね!」
「あ、ごめん。ちょっと早すぎたよね。」
ちょっと、ではない気もするが、愛花は微塵も気にする様子はなかった。
「入って、入って。これからお母さんとオムライス作るから。志保も一緒に作ろ!」
窓から手を出した愛花は志保の腕をつかみ引っ張るようにして家に招いている。
「愛花?」
「うん?」
「私を窓から家に入れるつもり?」
「おっとっと。玄関にどうぞー!」
愛花は志保の腕を離し、志保を迎えるために玄関へ駆けていった。
志保は与えられていたタスクを完了させるため、玄関で出迎えてくれた愛花の母に丁寧に頭を下げた。
「こんにちは。お邪魔します。」
「いらっしゃい。志保ちゃん。」
「すいません、時間より早く来てしまって。」
「志保ちゃんならいつでも大歓迎!」
この母あって、この愛花ありだなと志保は思った。愛花の無邪気な笑顔は愛花の母の笑顔によく似ている。
「これ、母から預かりました。どうぞ。」
「あら、ご丁寧にどうも。志保ちゃんのお母さんは本当に優しいわ。ありがとうの電話を入れておかなくちゃ。」
志保母と愛花母はよくお茶をするくらいには仲が良い。ただ、志保のことになると志保の母はやたら丁寧に、気を遣う傾向がある。
「志保!キッチン!オムライス作るよ!」
「こら、愛花!お客さんに手伝わせないの!」
「えー、みんなで作った方が楽しいよ?」
「リビングにいるお父さんが気まずいでしょう?それに、愛花は志保ちゃんに相談ごとがあるんじゃなかったの?」
「そうだった!」
「オムライスは私が作って持って行ってあげるから。志保ちゃんとお部屋で待っていなさい。」
「ちぇー。まあいっか。行こ!志保!」
これまでも志保は愛花の家に何度か遊びに来たことがある。一回、お泊りしたことも。愛花と初めて会ったのは中二の春だったが、出会って一年少々とは思えないくらいに、お互い気を許しあっている。恐らく、愛花の懐の広さのおかげだろう、と志保は思っている。
「お邪魔します。」
愛花の部屋に入る時に、志保は言った。個人の部屋はなんだか小さい家のような気がするので、部屋に入る際には毎回つぶやくように言っている。
愛花の部屋はふんわりいい匂いがする。ベッド、椅子、ぬいぐるみ。全体的にピンクの物が多い。印象としては子供っぽい。それでも部屋の主が愛花なので、なんの違和感もない。
「はい、座って座って。」
部屋の中央にある背の低い机の前に愛花は正座し、反対側に志保を誘導している。
「なんで正座?」
「相談、聞いてもらうし。ちょっと真剣なお悩み相談だからね。」
「別にいいよ。悩み?何かあったの?」
「いやー、ちょっとねー。」
愛花は机の上のパンフレットのようなものをトントンとつついていた。
志保は愛花の反対側に腰をおろし、パンフレットを手に取った。
「夏合宿?高島塾の?」
「そう!」
「行きたいの?」
「うん!申し込んだ!」
「じゃあ、悩みって?」
「うーーーん・・・・・・」
愛花が言葉を詰まらせていた。
「見ちゃったんだよね。」
「何を?」
「名簿。合宿に申し込みしてる人の。」
「え?どこでそんなの見たの?」
「塾長面談の時にさー。塾長がパソコンで開いてたのをちらっと。」
志保には悩みの本質が分からなかった。
「それで?名簿がどうかしたの?」
「うん。賢人がいたの。名簿に。」
けんと?
愛花の口から男の子の名前が出たのはこれが初めてだったので、驚きを隠せなかった。
「え?彼氏?」
「違う違う違うよ!全然違うよ!ホントに!」
愛花は焦ったような顔をして、手と顔を横にぶんぶんと振っている。
よく見ると、愛花は耳が赤くなり、目は泳いでいるように見える。
愛花は嘘がつけない子なので、志保は感じ取ってしまった。彼氏ではないにしろ、「けんと」は愛花にとって、特別な存在なのだろうと。
「賢人はねー、小学校の時の友達!彼氏じゃないよ!」
「へえ、でも友達なら別に問題はないんじゃない?」
志保は意地悪そうに、愛花の反応を楽しむように、あえて愛花が困るような質問を投げかけた。
「うーーん。友達なんだけどね。もう何年もしゃべってないの。」
「違う中学校なの?」
「そう。志保と同じところ。」
「・・・・・・え?」
志保は必死に「けんと」で脳内検索をかける。ヒットしたのは数学教師の下の名前だけだった。
「ごめん、けんとって名前、記憶にない。」
「そっかあ、知らないかあ。」
「本当に名光中?同級生だよね?」
「そうだよ?めっちゃ頭いいの!」
「多分、名光にいる人は大体そうだと思う。」
「志保も天才だもんねー!」
この手の話は否定しても無駄だと知っているので、志保は否定も肯定もしないことにしている。
「それで?愛花はけんとくんと話したいの?」
「うん!でもね、私・・・・・・」
いつになく、愛花が真剣な表情をしている。
「私ね、賢人には・・・・・・賢人には、謝らないといけないことがあるの。」