第六話 少年皇帝
皇位継承に関して、朱祁鎮に敵はなかった。
宣徳帝がもうけた男児は二人だけ。祁鎮の異母弟、祁鈺は宣徳帝の眼中にない。朱祁鎮は皇帝教育を受けて九歳になった。その年、宣徳帝は病を得て、わずか三十六歳で崩御。そして幼少皇帝の誕生だ。元号は正統となった。
大明国は建国以来の節目を迎えた。皇帝が成人でない事態だ。初代洪武帝こと朱元璋の即位は四十歳、永楽帝は四十二歳、洪煕帝が四十六歳、そして宣徳帝が二十六歳だった。
重臣たちは張太皇太后と孫皇太后の意向により、万全の体制を敷いた。
王振は幼い皇帝の意向により、金英の代わりに司礼監掌印太監に任命された。
宦官の最高位職で正四品、内閣大学士に匹敵する権力を手にしたのだ。票擬制のおかげで宦官が影の内閣を形成していたからだ。
これはよくあることだった。皇帝が変わると、所帯が変わるように、先帝のお気に入りが優先されると限らない。
が、王振の道が順風満帆にひらいたわけではない。
ある日、少年皇帝の後見である張太皇太后は、孫皇帝の乾清宮に抜打ち査察を仕掛けた。彼女は孫の乱れた生活を一目で見抜いた。
即位して数か月、延々と続いた儀礼が一段落し、少年皇帝は羽を伸ばしていた。
母の宮殿から乾清宮に移った彼は、毎夜の寂しさを紛らわそうと紙牌に夢中になった。陛下を含む四人が勝敗を争っている傍で、誰が勝つか賭けに興じる者もいた。宦官の楽しみときたら、美食か賭け事だから誰も止めない。
それが張太皇太后にバレた。彼女は朱家の掟を守る賢明な女で、その発言力は重臣たちさえ影響下に置く。永楽帝の長男の嫁として、お気楽な隠居をキメたりしない。太皇太后は王振に死刑を宣告した。
が、このピンチを救うのが朱祁鎮なのだ。
彼は祖母の前に叩頭し、さめざめと泣いて訴えた。
「王老師は私の大切な師でございます。師なくして私はこのように育ちませんでした。もし王老師の命を断つのであれば、生徒である私も大罪があると申せましょう。また、彼を私の老師に任命した亡き父上の御霊に何とご報告すれば良いのでしょう」
賢明なお婆さまは、死刑を止めた。彼女の意図は「新人太監の王振が皇帝の威を借るを許さぬ」にあった。要するに、彼に釘を刺しにきたのだ。
王振は待った。彼女が死ぬのを待った。永楽帝時代からの重臣、楊士奇・楊栄・楊溥が死ぬのを待った。即位から七年後、少年皇帝が青年皇帝になる頃、ついに王振の時代が来た。
彼は洪武帝が立てた鉄碑を撤去させたのだ。