第四話 紫禁城の宦官たち
王振は気持ちがいい。皇太子からも東宮六局全員からも一目も二目も置かれ、本当に気持ちがいい。勤務の重責など気にならない。
それから六年間、彼は厳しい師父となった。
朱祁鎮が学問所に行く日を忘れて西海子で遊んだ時、王振は太后に上奏し皇帝を呼び出して、祁鎮をきつく叱らせた。この時随行した女官は牢に入れられた。
この時を境に、王振は完全に朱祁鎮の老師となった。
朱祁鎮は生活の全てを王振にはかって決めるようになった。
長年、彼の髪を梳いていた女官に官位を与えようとすれば、王振は「このようないやしい仕事には金子を以てすれば十分」と説き、彼に簫の音を聴かせた者がいれば「帝王は聖徳を学ぶべきであるのに淫声で惑わした」として杖刑に処した。
王振は朱祁鎮に強い影響力を持ち始めた。これが二人の十数年後の運命を決めたのである。
二十代前半の王振は忍耐強く、次期皇帝の教育に心血を注ぐ一方、宦官の情報網構築に念を入れた。
広大な紫禁城は外廷と内廷に分かれる。
外廷は皇帝と高官たちの政治の場、そして外廷の最北の塀の中央にある雲台門を境に紫禁城の北半分は内廷となる。皇帝の奇妙な家庭風景が広がる後宮だ。男性は彼と未成年の皇子だけ。他は妃たちと皇女たちが彼の家族だ。皇帝一家と生活を共にする宦官は、当然、物理的心理的距離は近く、王振に内廷の動きは筒抜けとなる。
王伴伴の地位は伊達でない。東宮の権威にすり寄る宦官はいくらでもいた。さらに抜け目のない女官や宮女もいる。皆、利するところに集まるのだ。やがて彼の情報網は外廷に赴く宦官へ広がった。
朱祁鎮の父である宣徳帝・朱瞻基の忠心あふれる側近は金英と興安だった。二人して永楽五年に安南国から献上された宦官だ。当時はその温雅な振舞いで永楽帝のお気に入りだった。非常に有能で、特技は料理。永楽帝以来、創意工夫の食卓を用意した。
金英は十三歳で南京の宮廷に入った。忠誠心と勤勉さを持って仕え、彼は恩賞に良い土地と大勢の奴婢を与えられたばかりか、司礼監掌印太監に昇進し、宣徳帝から「免死詔」を賜った。死罪をまぬがれるみことのりだ。
王振はのちに彼を朝廷から遠ざけようと、二度に渡り些細な罪で告発したが、いずれも重罰にならなかった。
興安は道徳心に満ち、義に篤い。彼は金英ほど高位でなかったが、宣徳帝の信頼は篤かった。朱祁鎮の父は彼らのように教養と忠誠を兼ね備え、容貌いやしからぬ宦官を好んだ。数々の書画を残した文化人にして、遊び人の気がある宣徳帝らしいといえよう。