第十二話 土木堡の変
また雨が降った。
雨の中、樊将軍は陛下の幕舎前で跪き、面会を請うた。王振が出ていくと、将軍は少しばかりの銀を彼の手に押し込んだ。
「一両にもならない重さではないか。無粋な軍人め!」
懐来城に行くことなく、王振は宿営地を土木堡に決めた。高台にあるため、オイラト軍もそうそう手が出せないと判断した。
まずい判断だった。土木堡の南を流れる川は、オイラト軍に占領されてしまった。井戸を掘っても水は無く、十万以上の兵士はオイラトと対峙したまま、飢えと乾きに苦しんだ。
例の樊将軍は王振を罵った。土木堡の粗末な営舎の柵前で大声で陛下に窮状を訴え、皇帝の最側近を罵倒している。王振は部下を遣って、彼を殴らせた。
二日後、エセンの使者が来て講和を申し出た。
渡りに船だと、王振は安堵した。講和の条件は王振にとってたやすい内容だった。下賜の品を元に戻すだけだ。
使者が引き上げ、土木堡の包囲が解かれた。オイラト軍は消えた。そこからが地獄だった。講和の件は完全な罠だったのだ。
川に駆けつけた明軍は、取って返したオイラトの敵ではなかった。
土木堡の高台から見える無残な光景。次々と屠られる明の兵士たち。血に染まる大地と川、土煙に混じる怒号と悲鳴、止むこと無き殺戮。
いつの間にか、甲冑に身を包んだ皇帝が営舎を出て、無言でそれを眺めていた。王振の傍で、微動だにせず……。
数騎が高台に駆けあがって来た。血まみれの樊将軍だ。
王振は部下と共に皇帝を営舎に連れ戻した。戦場の殺気で天子を汚してはならない。陛下だけは無事に北京に戻らねばならない。
樊将軍が営舎に飛び込んできた。
「王振! この奸官め! お前こそが明の敵、成敗いたす!!」
それでも王振は紫禁城と変わらない態度だった。
「何を言っているのだ。陛下の御前で血塗りの刃を手にするとは万死に値する。
私は陛下の老師なのだ。気安く名前を呼ぶな!」
樊将軍はよろめきながら狂ったように王振に迫った。
「死ねい、死ねい、王振!」
皇帝は呆然とし、周りの宦官たちは物陰に逃げるか、立ち尽くした。
王振は叫んだ。
「陛下!」
が、次の声が出ない。
樊将軍の刃が王振の胴を切った。彼の胸倉をつかんだ将軍の息がヒューヒュー鳴っている。彼の首元から血が滴り落ち、眼から力が尽きようとしている。が、刃は王振の胸を貫いた。
「あり得ない……こんな所で、この私が……」
樊将軍が先にこと切れ、王振の体に落ちた。土臭い床に血の匂いが広がっていく。
「北京に…戻…るのだ、北京……」
王振の眼は粗末な天井に向けられた。
「ああ、なんてひどい場所だ。私に優しくなかった故郷、乾いて埃まみれで痛々しい山々。
オイラト人の言葉が聞こえる。奴らがここまでやって来たのか。
陛下……陛下は何をなさって……。
ああ、陛下、南面に向かって座しておられる。こんな時にも天子としてご立派であられる……私が育てた甲斐があるというもの……」
王振の視界が暗くなっていく。どんどん暗くなっていく。
「陛下、御一緒に北京に帰りましょう、あと少しで紫禁城が見えるはず……」
正統十四年(一四四九年)、土木堡の変、あるいは土木の変と呼ばれる明軍大敗により、皇帝はオイラトの捕虜になった。二十万の明軍と文武百官が戦死し、北京は間もなくオイラト軍に包囲された。
この時、南京遷都を阻止し、北京を守ったのが兵部尚書に任命された于謙と胆力ある宦官の興安だった。
朱祁鎮は一年間オイラト族と共に過ごしたのち北京に送還され、さらに七年後、皇帝を務めていた弟を幽閉し、皇帝に復帰した。
彼は王振の像を香木で彫らせて葬式を行い、神中寺を建て深く供養した。王振は死後も皇帝の心に生きていたのだ。
その後、王振は野心を秘めた宦官たちの手本となった。
いったん味を覚えた大明国に、金と権力をまき散らす爛熟と放埓と腐敗がはびこった。
大明国は中期から末期まで、匹夫の宦官・劉瑾や魏仲賢らの跋扈を許した。そのどん底が万暦帝の治世の後半であり、『大明は万暦に滅ぶ』とまで後世に言わしめたのだった。




