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禁断の絵

作者: 近藤京

 その美術館は、街の喧騒から少し離れた静謐な場所にあった。周りを森に囲まれた美術館には時代を超えて集められた芸術作品が静かに展示されており、訪れる人々に歴史の重みを感じさせていた。

 美術館の奥には、一般には公開されていない古びた蔵があった。埃っぽい空気と、かすかな油絵の匂いが漂うその蔵は、長いこと誰も足を踏み入れていない。まるで禁足地とばかりに、近づくものを拒絶するかのような畏怖的で不気味な雰囲気があった。


  〇


 木の葉がからからと舞う乾いた秋の日のことである。勤めて間もないひとりの学芸員が、蔵の奥深くに興味を引かれて足を踏み入れた。

 軋む扉を開けると、薄暗い照明の下で無数の絵画や彫刻が眠っていた。

 何かに導かれるように歩みを進めると、埃をかぶった一枚の絵画が目に留まった。

 その絵画には知る人ぞ知る画家の署名が小さく書かれていた。だがこのような絵は見たことがない。何とも形容しがたい絵画。まるで初めて読む異国の言葉のように、何が描かれているのか全く理解できなかった。

「場合によっては、かなりの文化的価値があるかもしれない」

 彼は絵画を持ち帰り調査を始めた。


  〇


 美術館のアーカイブをひっくり返し、資料を丹念に読み込む。光り輝く彼の瞳は、真夏の森でカブトムシを発見した少年のそれだった。

 しかしどれだけ調べてもいっこうに手がかりが掴めない。そもそも超がつくほどのマイナー画家だ。それだけに遺作も多い。学術的な研究が進んでいないだけあって彼の作品を調べるなんて未知の言語を翻訳するようなものだ。

 だがこの絵にはきっと何かある。何かがこの絵に秘められている。

 学芸員はそう強く感じていた。


  〇


 彼の生活は次第に絵画中心になっていった。食事を忘れ、眠ることもない。同僚たちはその変貌に気が付き心配の声をかけたが、彼の耳には届かなかった。

 彼は日がな絵の前に立ち、その意味を探ることをやめられなかった。

 しかしいくら考えても状況は進展しなかった。この作品はいつどんな状況で描かれたのか。どんな思いが込められているのか。

 考えても考えてもこの画家の真意はわからなかった。むしろ追求すればするほど、どつぼにはまってゆく。深淵の海底を進んでいる気分だ。光は差し込まない。

 もうやめたい。忘れたいとも思った。しかし、頭の中にあの絵が浮かぶ。考えを支配する。仕事中も、友人と話している時も、絵の断片が彼の脳裏にちらつく。そのたびに鳩尾が締め付けられ胸が痛んだ。

 いつしか彼は痩せ細り目の下には深いクマが刻まれていた。

「もう忘れてしまいたい」

 と何度も考える。しかしそのたびにあの絵が頭の中に立ち現われ、彼の思考を蝕んでいった。


  〇


 その夜は雪が降っていた。寒さが一段と身に応える。

 霊安室のように冷たい寝室で眠っていた彼はふと目を開けた。彼に意識は無かった。生ける屍のごとく、絵のある部屋へと歩いて行く。まるで絵画に呼ばれているかのように。

 暗闇に絵を見つめていると、何かが不気味に蠢いているのを見た。何かもわからない「それ」が揺れ動く。

 彼は、額に大粒の汗をかき、手は震え、視界が徐々にぼやけ始めていた。頭の中で謎の声がこだまし、彼を苛む。絵の中の何もかもが生きているような錯覚に陥る。

 淡い夜明かりが照らした彼の顔は、フランケンシュタインのように醜悪になっていた。

 彼の手が無意識に絵に触れ、その冷たい表面を撫でる。絵の中からは赤いインクが滲み出し、彼の手を染めあげる。

 目は虚ろになり、狂気に満ちた笑みが浮かんだ。体全体が震え意識が次第に遠のいていった。

  〇


 雪もすっかり止んだ翌朝、出勤してきた職員が彼を見つけた。

 死んでいた。

 虚ろな目は絵に向けられたまま。何かを伝えようとするかのように。

 だが彼の視線に気づく者はいなかった。

 窓の外は命燃やす日差しが雪を銀色に発光させていた。その反射光が窓から飛び込み部屋を煌々と彩っていた。その光景は綺麗な清流の中にいるかのようだった。

 彼が何を見たのか、何を感じたのか、それを知る者はいなかった。

 ただ、絵の前に立つ者はかすかな冷気と触れてはいけない「何か」を感じると言われている。

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