幼馴染と秘密の結婚
この日を待っていた。
ジェシカはツェルツオーニ国の王都近郊、エルクガルド領を治める侯爵家の令嬢である。国中が祝福した第一王子誕生から一ヶ月後に産声を上げたことで、未来の王妃として注目を浴びるようになった。顔合わせが行われたのは三歳のとき。予想通りだと周囲は湧いたが、その後の交流が見られなかった為、素質がなかったのだろうと囁かれるようになる。誰が婚約者となるか。策略めいた憶測が飛び交う中、どの令嬢も城に呼ばれていない。尤も王子に見初められたのは自分だと風潮する者はいたが、嘘は簡単に綻ぶ。いつしか、他国から妃を迎えるのだと噂は広まることとなった。
王子の誕生から十八年。誰もジェシカのことを気に留めなくなっていた。
「これでよかったんだよね」
「俺がそうしたかったんだ」
アルバートの優しい声音は断言する。繰り返されてきた問答も今日でお終いにしようとジェシカに告げる。
この国の第一王子として誕生したのがアルバートだ。二人は確かに三歳のときに顔合わせをした。夏の暑い盛り。王宮の一室。挨拶を済ませ、お互いの両親と少し離れた場所に用意された子ども用サイズのテーブルセットに、二人は行儀よく腰掛けていた。それはジェシカがカップに手を伸ばしたとき。アルバートは一瞬気を抜いてしまった。
「コーラ のみたい」
小さな呟きはジェシカにしか聞こえなかった。それでも普通なら、正確に聞き取ることは出来ないだろう。
「……ほねが とけます」
「まっ……」
試すように返され、アルバートは口をパクパクとさせる。
「ふ、ふつうに のむだけなら とけない」
「みたいですね」
にっこり笑うジェシカをアルバートは信じられないと凝視する。
「なんで」
「わかりません」
二人はぽつりぽつりと話し始めた。周囲の大人には幼い子ども独特の世界に仲良く浸っているように見えただろう。アルバートとジェシカは、物心がついたときから別の記憶を持ち、ひた隠しに生きていた。前世、同じ国の違う地域に住んでいた。二人は本当の自分を理解してくれる人にやっと出会えたのだと確信する。
アルバートは自然豊かな自国を愛す穏やかな王子と思われているが、自身はいつも戸惑い焦ってばかりだった。頭の中では理解できることが表現出来ないもどかしさ、前世と現世が入り乱れる記憶。だからこそ、同じ境遇の人物がいたことに驚かされ、こぼした失言に当たり前のように返したジェシカの豪胆さと誠実さに惹かれた。
七歳の冬。新たな産声に国民が歓喜した。ツェルツオーニ国の第二王子、第一王女の誕生。誰もが二重の慶事に繁栄と平和を祝い願った。
ジェシカは登城する父に手紙を預ける。公務でお会いする陛下にお願いをし、アルバートの手に渡るように。
『弟君、妹君の御誕生おめでとうございます。殿下はお変わりはありませんか。殿下の婚約者ですのに、私は何も存じませんでした。言わせたい者には言わせておけばいいのです。しかし平穏な日常は殿下のお気遣いがあるからこそですよね。もどかしさでいっぱいです』
アルバートは母である王妃へ手紙を預ける。お茶会へ招かれたジェシカの母に渡り、娘であるジェシカへ届くように。
『ジェシカから手紙をもらえるとは思わなかった。ありがとう。城はまた賑やかになったよ。ジェシカは弱くない。これは俺の我儘だ』
『形ばかりの婚約のようで少し寂しく思っただけです。でもこの世界では用心に越したことはないのかも知れませんね。知らなかったと少し拗ねただけです。まだ子どもですから』
『俺もまだ子どもだ。ジェシカに会いたい』
一週間後。ジェシカは箱の中にいる。起床し、侍女から念入りに支度され、父に問答無用で箱に入れられた。果物の詰まった箱に挟まれ困惑する。出荷、の二文字が冗談半分頭に浮かぶと父が近隣諸国の果物を仕入れていることを思い出した。上質なものは王家へ献上している……王家。ほっと息を吐く。もとより両親を疑ってはいなくても突然のことで頭が混乱していた。説明してくれればいいのにと一人呟く。
「会いたかった」
アルバートはジェシカに駆け寄り手を取る。
「お元気そうですね」
「ああ。ジェシカ、大きくなったな」
「殿下こそ」
口角を上げたアルバートは頬の横に顔を寄せ、クンクンと鼻を鳴らす。
「甘い匂いがする」
「果物と一緒に運ばれてきました」
「何だそれ。見たかったな」
アルバートは屈託なく笑う。
「面白いものではないです」
「果物に囲まれるジェシカは可愛かったと思うよ」
「っそんな」
耳まで赤く染めるたジェシカに、アルバートは優しく微笑む。
「さあ座って」
それからジェシカは上質な果物が手に入るとアルバートへ献上されるようになった。秘めやかに過ごす時間。前世の話で盛り上がる二人は、日を重ねるごとに今世での話ばかりをするようになる。小さなころの思い出、家族とのこと、自宅での過ごし方、これからのこと。
「アルバート様。ジェシカ様。そろそろお時間です」
ジェシカは真っ白のドレスに身を包む。肩から肘まで続くレースの袖が磨かれた肌を隠す。裾には一面の刺繍が施され、散りばめられた小さな宝石が光を反射させている。
「ジェシカ。綺麗だ」
改めて向き合うとアルバートが呟く。
「アルバートもとても素敵」
そっと抱かれジェシカは腕を回す。
「あまり近づくとドレスにシワがよってしまうな」
「ふふ。そうね」
「今日からはずっと一緒に居られるんだな」
「ほんとね」
三ヶ月前の夜会。陛下は第二王子を王位継承者とすると宣言し、会場は一時騒然となった。流石に声を荒げる者はいなくとも、あちこちでひそひそと交わし合う姿が物語る。
「次期王となるのは何も生まれた順でなくてもよい。寧ろ、たったそれだけに囚われすぎるのはよくないことだ。本人の能力と資質を見極め、ときには意志を尊重することも重要だろう」
続いた言葉に誰もが戸惑いを隠せない。貴族どころか平民ですら余程なことがない限り嫡男が跡を継いでいる現状を、王家が覆すとなれば一大事だ。
「我が国第一王子アルバートは、エルクガルド侯爵家令嬢ジェシカ・エルクガルドと婚姻し次期侯爵となることとする」
アルバートは陛下の横に立つと、人混みに紛れていたジェシカに右手を差し出す。ジェシカは背筋を真っ直ぐに伸ばしたまま歩き出す。周囲は二人の一挙手一投足を食い入るように見る。
「さて。この婚姻に異議はないな」
あったところで許さないという口調で陛下は念を押す。それぞれの顔色を伺いながら頷く者や押し黙る者、唇を噛み締める者様々だが、どこからか拍手が一つ上がる。二つ、三つ、次々と輪は広がり手を叩いていない方が目立ってしまうほどだ。
「一つだけ言っておく。アルバートは決して劣っていたわけではない。王子として責務を全うし、日々切磋琢磨していた。己の道を掴んだに過ぎない」
陛下が口を開いた途端、一度静まり返った会場は再び拍手で溢れる。アルバートは父である陛下に王位継承から逃げているわけではないと示した上で説得する為、帝王学も武術も熱心に励んでいた。
「いいタイミングだ。踊るか」
示し合わせていたように音楽が流れ出す。ファーストダンス。陛下は王妃の手を取るとフロアの中央へと向かう。優雅に舞う姿を見つめていたアルバートがジェシカに手を伸ばす。
「踊ってくれるか?」
「もちろん」
そっと囁き合う。アルバートの部屋ではダンスのレッスンも受けていた。何度も何度も練習を重ね慣れきったはずのペアは、初めて人前で踊ることで少し緊張して見える。驚きや嫉妬が残る渦は、初々しさの残る二人を微笑ましく見守り始めた。
「本当にジェシカと踊っているんだな」
「今までだって踊っていたじゃない」
「そうだけど。こうして観衆の中で踊っているとジェシカを独り占めしている気分だ」
「ずっと独り占めしていたくせに」
「そうだな」
一曲目が終わる頃には気のおけない会話を楽しむ余裕が出た。二曲目に入っても踊り続ける二人に思わず見入っていた者は、慌ててペアを組みフロアに踏み出す。気になることは山ほどあるのに近づけないのだろうなとジェシカは考える。こんな調子でいいのかと疑問に思ったが、これがアルバートなりのやり方なのだと納得をする。
「頼りなくてごめんな」
眉根をひそめ、アルバートが謝罪する。
「ううん。いつも守ってくれてありがとう」
「俺は興味本位の探り合いや、化かし合いは好きじゃないんだ。無意味な争いはしたくない」
「わかってる。でも今日からアルバートも侯爵家の一員だし、もうすぐ侯爵位を継ぐんだからそうは言っていられないからね」
「ああ。それは構わない。ジェシカと一緒にいるためだから」
「ふふ。私も頑張らなきゃ」
ジェシカが握った拳をアルバートは優しく包み込む。
「いつのまにかアルバートの方が大きくなったのね」
「今更?」
「まさか。再確認したの」
二人は再び寄り添うとそっと口づける。
「みんなが待っている。そろそろ行こうか」
「はい、あなた」
おでこをぶつけ笑い合う。今日と同じ日に二人は出会った。この佳き日に二人は感謝する。