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引きこもり王女様は勇気を出してお出かけをする

作者: 槻群夕日

 ヨルは王城の廊下の窓に寄りかかって、中庭を見下ろすのが好きだった。


 中庭では一人の少女が花壇に身をかがめて、草をぽきぽき引き抜いている。少女は麦わら帽子を被り、肌触りのよさそうな生地のTシャツにゆったりとしたワイドパンツを履いていた。

 王城にある庭でなければ、どこにでもいる庶民の女性に見えなくもないかもしれない。

 しかし、ここは城の中庭。

 彼女も王族の一人、第三王女エリアである。


 王女エリアはふと後ろを向き上を見上げた。ちょうど、ヨルのいるあたりだ。

 彼女はヨルを見つけると、立ち上がって手を振った。彼女が立ち上がると、庭に生えた大ニレの葉の影が彼女の顔にかかって、一枚の絵画のようだった。

 ヨルは手を振り返したが、小さく「今日も王女様はかわいいですねぇ」と呟いた。

 エリアは、そのまま作業を切り上げると中庭から出ていった。


 少しすると、ヨルのいる廊下にエリアがやってきた。

「おはようございます」とお互い挨拶すると、エリアは恥ずかしそうな表情を浮かべて、

「このような格好ですみません」と自分の服装を見ながら言った。

「いえいえ、お疲れさまです。のど乾いていませんか」と、ヨルは銀色の小さなコップを手に尋ねた。

「ええ、ありがとうございます。ヨルは気が利きますね」と言って、コップを受けとった。

 エリアはコップの飲み物をごくごくと飲むと、

「冷たくておいしい」と呟いた。

「タオルもどうでしょう」とヨルが真っ白なタオルを差し出すと、

「助かります」と言ってエリアは受け取った。


「そういえば、先ほど何か小さな声で言っていたようですけど」と、エリアはヨルの顔を見ていった。

「え、なんでしょう」

「ほら、先ほど、中庭からわたしが手を振ったときに」

「ああ」とヨルは、思い出した、という表情をしたが、「別になんでもないですよ」と言った。

「悪口ですね」とエリアはむくれた表情をした。

「え、違いますよ。褒めたんですよ」

「本当ですか? じゃあなんて言ったんですか?」

「それは言いませんが」とヨルはにこにこして言った。


「もう。まあ、いいです」とエリアは言って、少し黙って間を置いた。それから、

「ヨルは、今日の午後お暇でしょうか」と聞いた。

 最近、ヨルはエリアに頼まれて勉強を見たりしている。本当はヨルの仕事ではなかったが、いろいろ特殊な事情があって、ヨルは引き受けていた。今日もまたそれだろうか、とヨルは思った、

「はい、特に用事はありませんよ」とヨルは答えた。「もしあっても王女様の前では実質無いのと同じです。むしろ、なくなります!」と清々しい笑顔を浮かべて言った。

「そうですか。なにか、引っかかる部分があるような気がしますがいいでしょう。それで」と言って、 エリアは咳払いをした。それから、言葉を続けた。「その、ま、街に出かけてみたいと思うのですが、付いてきてくれないでしょうか」


 エリアはそういいきると、顔を伏せて、緊張した面持ちでちらちらと上目遣いにヨルの様子を窺っている。


 この王女様は仕草も含めてめちゃくちゃ可愛らしい。いやそれ以上に、ヨルはエリアの言葉にとても驚いたが、それを態度に出さないようにした。

「もちろん、私でよろしければお供しますよ」

「あ、ありがとうございます。ではまた後で」と言って、エリアは足早に立ち去っていった。


 ヨルがエリアの言葉に驚いたのも無理はない。

 なぜならば、エリアはこの国では「引きこもり王女」と呼ばれている人物なのだ。

 一時期、エリア王女は、極力自分の部屋が出ず、他人と顔を合わせないように暮らしていた。ヨルがこの城に来て働き始めたときは、確かにそのような生活をしていたのを見たことを覚えている。

 そう、あの時の王女様は目には光がなかった。話をしていても、自分の姿がその目に映っていないような気がしたな、とヨルは思い出す。

 それが最近は城のなかだけではあるが、活発に自分のしたいことをするようになった。特に庭の手入れは熱心にやっていて、ヨルにもよく楽しそうにいろいろな植物のことを話してくれる。


 エリアが自分から城の外に出かけようとするのはとてもめずらしい。ヨルが知る限り、彼女が出かけているのは見たことない。

 きっと、何かの心境の変化があったのだろう。自分の意志で出かけようということは、前向きな変化であるだろうしとても嬉しい。その一方で、無理をしていないといいけど、とヨルは少し心配にも思った。


 ヨルがそんなことを考えていると、廊下の向こうから、エリアの姉であるミランダ王女が歩いてくるのが見えた。

 ヨルの前で立ち止まると、ミランダ王女は「こんにちは」と挨拶をした。ヨルも礼儀正しく挨拶を返した。

 ミランダ王女が近くに来ると、ほのかに薔薇の香りがした。


「先ほど、エリアに聞きましたが、今日は街に出かけるそうですね」

「はい」とヨルは答えた。

「ヨルくんが一緒なら心配ないですね。本当は私も一緒に行きたいところですが」といって、ミランダ王女は小さく首を振った。「いつか私にも心を開いてくれるといいんですけど」

 ヨルはなんと言ったらいいかわからず、曖昧な笑顔を浮かべていた。

「私がエリアに、午後のお出かけのことを聞き出すのも一苦労でしたよ」とミランダ王女は笑った。

「本当にヨルくんには感謝しているんですよ。あなたが来てから、ゆっくりとですが、あの子はいい方向へと向かっているようですし」

「いいえ、私の力など微々たるもので」とヨルは答えた。

「あなたは、そうやって謙遜しますが、周りの人間から見ればよくわかりますから。私にも前よりもなんとか話そうと努力してくれているようです」

「そうなんですね」

 ヨルは、それはいいことだな、と思ってうれしくなった。

「でもそれも、あなたのためだと思いますけど」

「どういうことでしょうか」

「さあ、どういうことでしょうね。これ以上話すのは無粋というものでしょう」といって、ミランダ王女は、ふふふと笑った。

「本当は、ヨルくんが言い伝えの勇者様だったらよかったのかもしれませんが」

 ヨルはそれに対して何も言わないでいた。

「いえ、これは今となってはもうどうでもいいことですね。忘れてください」

 それからミランダ王女は「では、エリアをよろしくお願いしますね」と言ってその場を去っていた。


「さて、午前中に今日の分の仕事を済ませておかないとな」

 そう言ってヨルも自分の持ち場に戻ることにした。



 午後になって、エリアが待ち合わせの場所に来ると、ヨルが待っていた。

 ヨルは、ベージュのジャケットに、白のシャツを着て、グレーのハンチング帽を被っていた。いかにも街にいそうな少年といった格好だ。


「お待たせしましてすみません」とエリアが言うと、

「全然、待っていませんよ。今ちょうど来たところです」と言ってヨルは懐中時計をとり出して、それをわざとらしく見て、「ああでも2秒くらいは待ちましたね」と言った。

「ヨルはおかしなことをいいますね」とエリアは言って笑った。


 エリアは、白を基調としたレースやフリルで細かな装飾のついたブラウスに、グリーンのフレアスカートを履いていた。見るからに素晴らしい生地と仕立てで、王族らしい気品のある装いだ。

「どうでしょう。変かもしれませんが」とエリアは自分の服装を見ながら言った。

「いえ、とてもよく似合っていますよ。ですが、これでは街中で目立ってしまいますね」

「ああ、そうですよね。私はお出かけするのは慣れていないので、そういうことわかっていなかったみたいです」

 エリアは、口ではそう言ったが、それほど不満そうな表情ではなかった。

「もう少し目立たない服装に着替えてきますね」と言って彼女はそこから歩き出した。


「ああでも、着替えてしまうのはもったいないです。そうだ、今度、画家を呼んでこの服装で肖像画を描いてもらいましょう」

 エリアは振り返らずに「やめてください」と小さな声で言って、そのまま歩いていった。心なしかいつもより早足だった。

 

 しばらくすると、エリアはチェック柄のシンプルなワンピースを着て戻ってきた。

「お待たせしました。さあ行きましょう」

 ヨルは、「はい」と言って歩き出すと、エリアもヨルの後ろをついて歩き出した。

 

 

 王城は丘の上にあって、そこから南側に降りていくと、王都の中心街が広がっている。

 街の向こうにはこの都市全体を囲む城壁があり、その外を東西に大きな川が流れているのが見えた。あたりには人気はなく(ヨルがエリアのためにわざわざ選んだルートなので当たり前だ)、静かで、風が気持ちよかった。ヨルがエリアの方を振り返ると、目の前に広がる光景を初めて見るもののように楽しんでいるみたいだった。

 それを見て、ヨルは安心した。

 それから、ヨルは歩きながら、この世界に来てからのことを思い出した。

 

 ヨルはもともとこの世界の人間ではない。

 いわゆる異世界転生というやつだ。もとの世界では平凡な高校生だったが、この世界には『勇者』として転生した。

 この世界に転生するときヨルは「あなたはこの世界では『勇者』として生きてもらいます」と「転生の女神」に言われた。

 こちらの世界に来てからも、確かめる機会があったのでヨルがこの世界で勇者であることは多分間違いない。


 しかしその一方でヨルは、その勇者という身分を隠して生きることにした。


 一つは、この世界は今は平和で、勇者は特に必要とされていないと、女神が言っていたからだ。

「この世界に勇者を送るのは単なる契約上の理由です。だからただ生きてもらうだけでいいんです。何をしても何をしなくてもあなたの自由ですから」

 と言っていた。


 もう一つは、ヨルはもともと注目を浴びるのが苦手だった。何事もほどほど、平凡な日常が自分には合っていると思っていたのだ。

 勇者という身分を明かせば、名誉やら贅沢やらが手に入るだろうが、それはヨルにとって、怖い、あるいは不安、そういう感情を抱かせるものだった。


 ヨルはこの世界に来ても平凡な一人の青年として暮らしていた。だが、縁とは不思議なものだ。彼の勇者という身分に引き寄せられるように、この王城、そしてエリア王女とかかわり合いになることになった。

 ヨルがこの城にたどり着くまでに、時間としては半年ほど、しかし話すには少々入り組んだ出来事があった。今は、そこは省くことにしよう。


 この城にヨルがたどり着いた時には、エリア王女は深刻な状態にあった。それはいわゆる「引きこもり王女」全盛のころだった。

 彼女は誰とも会わずに、部屋に篭る日々を過ごしていたのだった。

 それは、他でもない「勇者」も関わる、悲しい巡り合わせだった。



 エリアは、今よりずっと小さい時分に、王家お抱えの占い師にある予言をされたという。

「このものは将来勇者と結ばれ、手を携えて歩み、この国の光となるだろう」

 それはエリアが、この国で「救世の巫女」と呼ばれる特別な役割を持った人間であることを意味した。


 この予言は国中に伝えられ、喜ばしい知らせとして王国の民はみな喜びに沸いた。幼いエリア王女が通るときには、だれもが道を開け、ひざまずき祈った。

 王国の貴族たちがさまざまな贈り物をしたので、エリアの部屋は美しい宝石や家具や布類であふれ返ってまるで宝物庫のようだったという。


 一方で、それからエリアはこの「救世の巫女」という役割を生きることに苦しむことになった。

 言い伝えでは「救世の巫女」は生まれながらにさまざまな奇跡の力をもつという。

 「救世の巫女」がもつといわれる奇跡について詳しく記された書物にしたがって、特別な力を起こすことをエリアは求められた。

 エリアもその求めに応じようと言われた通りにしようとしたが、なかなかうまくいかなかった。

 すると、だんだんと周りから、「救世の巫女」であることを懐疑的に見られ始めた。後ろ盾として、エリアの味方を自認していた人々は一つでも「奇跡」を起こせれば、予言が正しいことを証明できると考えて、文献に載っていたあらゆる巫女のもつとされる力を使うよう試させた。しかし最後の一つに至るまでエリアは力を見せることはできなかった。


 それからエリアの周りにいた「味方」と称する人々は驚くほどの速さで消えていった。

 エリアは、その頃から、明るい表情を見せることが減っていったという。

 ヨルは、その時のエリアのことを思うと、胸が張り裂けそうな気持ちになる。

 周りの大人たちから、「これをやってごらん」と言われ、言われた通りにしようとしたのに、その度に失望された顔をされたに違いない。

 エリアが試した能力の一覧が記された資料をヨルは見たことがある。それは百や二百といった数では到底収まらないものだった。

 今でも時々、エリアが「私には無理です」と悲しそうに口にすることがある。その度にヨルは、その奥に癒されない悲しみを感じるのだった。


 それでもエリアは必死に王女としての立場を生きようとした。しかし、現実はまだ冷酷だった。

 エリアが「救世の巫女」であることを徹底的に否定して、王族の威信を弱め、自分たちの勢力を強くしようとする人々がいたのだ。彼らは大臣などの職に就き、徒党を組んで、エリアを中心に王族を攻撃した。

 まず、予言をした占い師が追放された。他にも、昔から王家を支えた人々が王族を守ろうとして、次々に追いやられていった。

 エリアは自分の大好きなお城の人々が次々といなくなっているのを目にして、それの原因だと自分だと考えて、大きなショックを受けた。それが積み重なってついには、彼女は自分の部屋から出られなくなっていまったのだった。

 

 ヨルが城にやってきたのは、エリアがそんなふうになって少しした後のことだった。

 その時王城で何が起こったかを知ったヨルは、自分でも驚くほどの怒りに身が震えたのだった。

「彼女が一体何をしたというんだろう」

 彼は、その時自分の持てる力を振るって、エリアを攻撃する勢力を排除することにした。彼は必死に戦った。昼夜を忘れて周りが見えなくなるほど働いた。

 一年ほどかかって、彼の仕事は終わった。

 ヨルの仕事は終わって、もうできることはないと思ったので、城を去ろうかと思っていたのだがその頃、思い掛けないことが起きていた。


 エリアがヨルのところに来て、話をするようになったのだ。

 あとから聞いたところでは、城内で大きな噂になっていたらしい。

 王女様が部屋を出たというので、それでまず大騒ぎになり、気付かれないようにみな観察していると、毎回ヨルのところに行くのだった。それで知らない間にヨルの地位がどんどん上がっていったという。ミランダ王女がそんな話をしていた。

 エリアの家族をはじめ、エリアのことが好きな人は実は少なくなかったのだ。

 しかし、この王族の気質というか、取り巻く人々も含めて温和な性格の人物が多く、状況を変えることができずに心を痛めて見守ることしかできなかった。そんなところに、ヨルが現れてエリアを救ってくれた、そんなふうに思っているのだという。だからヨルは今ではこの城でとても敬意を払って接されている。実際、ヨルが何かを頼めばほとんどの場合、それを聞き届けてもらえた。


 ヨルのところにエリアが来るようになって最初は、びくびくとして、ほとんど話をすることはできなかった。しかし、ヨルは彼女の受けた苦しみを知っていたのでゆっくりと待った。


 今でもそうだが、一日に一度はどこかで顔を合わせて、二人は少しずつ話をした。ヨルがどれだけ忙しくて一日部屋にいない日でも、必ずエリアと城のどこかで出合うのでヨルは不思議だった。

 時々、二人で話しているときに、エリアがひどく落ち込んだ表情になって「わたしなんかが、ヨルと話をしてはいけないですよね」と言って、急にいなくなってしまうことがあったので、ヨルからもエリアに会いに行くようにした。そのおかげか、次第にそういうこともなくなった。

 エリアは、もしかしたら無理をしているのかもしれないが、ヨルとはいつも明るい表情で話すようになっていた。

 ヨルはエリアのそんな表情を見るのが好きだった。

 

 城に来たばかりのころ、ヨルは自分が「勇者」であることを明かすべきか考えたこともある。そうすれば、予言を補強することができただろう。

 しかし、結局のところ、エリアが「救世の巫女」として祭り上げられること自体が、彼女にとっていいことではないとヨルは考えた。だって、彼女に何の得があるというのだろうか。結局、彼女がなりたいと思わない限り「救世の巫女」になる必要はないのだ。

 そして、その時のエリアが(きっとこれからもずっと)「救世の巫女」になりたいと言うとは思えなかった。

 だから、ヨルは自分が勇者であることを明かさないままにすることにしたのだった。



「もうすぐ街でしょうか」

 ヨルとエリアは城から丘を降りてきたが、建物の並びが目の前に近づいてきていた。まだ周りに人が少ないが、にぎわいの音が遠くで聞こえていた。

「ええ、そうですね」

「今、歩いているとき、なにを考えていたのでしょう」とエリアはヨルに聞いた。

「さて、街についてからのことをいろいろと」とヨルはごまかした。

「昔のことではないですか」とエリアはヨルの考えていたことを見抜いたように言った。

「それも少し」とヨルは仕方がなさそうに答えた。

「いいんですよ。それに、わたしと出会う前のヨルの話を聞きたいのですが」

「それは別に話してもいいのですが、少々長くなるので、また今度にしましょう」

「必ずですよ」

「ええ」とヨルは言ってから、立ち止まった。


「ここからは一気に人が多くなりますが、大丈夫でしょうか」とヨルはエリアに尋ねた。

「はい、覚悟してきたので大丈夫ですよ」とはっきりとした口調で言ったが。よく見ると、手をぎゅっと握りしめ緊張しているようだった。

 ヨルは、片手をエリアの前に差し出して、「はぐれては大変ですから」と言った。

 エリアは「はい」と言って、少し恥ずかしそうにその手を握った。

「すみません、我慢してください」とヨルはエリアに声をかけた。

「我慢だなんて……これはヨルの当然の仕事です。だから人混みのなかでは決して離しては駄目ですよ」とエリアは言った。

 ヨルはそれを聞いて「わかりました」と答えた。


 

 王都の南に広がる市街地は、レンガ造りの西洋風の建築物が並んでいる。どの家も、赤い屋根に、壁は一面の象牙色に薄いオレンジ色の縞模様が上のほうにだけ入っている。それはこの地域の伝統的な建物の外観である。

 ヨルたちは人の少ない道を選んできたので、大通りからではなく、建物と建物の間隔が狭い細い路地を通って街の中に入っていくことになった。

 三階建ての家は、エリアにとって壁のようにそびえて見えているかもしれない。彼女は、上を見上げ、ずっと目を大きくしながら歩いていた。立ち並ぶ建物の間からのぞく、細長の空はよく晴れて澄んだ青色をしていた。


 細く暗い道を抜けると、開けた場所に出た。

 さまざまな商店や、天幕の下に箱を積み重ねた出店などが立ち並ぶ大通りだった。どのお店にも人がたくさんいて、活気のある声が飛び交っている。

 ヨルは、エリアが手を握る力が少し強くなったのを感じた。


 ヨルはゆっくりと歩いた。エリアはその後ろで隠れるように、店に並ぶ品物に恐る恐る目を遣っては目線を戻していたが、次第に好奇心が勝ってきたのか、時々何かにじっと目を留めて見るようになった。

 エリアが立ち止まった。

 ヨルが振り返ってみると、そこはお菓子を売っている出店だった。

「あれ、なんでしょう」といって、細長いビスケットのようなお菓子が並んでいるのを指さした。

「あれは、 アモンドバトネというお菓子ですよ。さくさくとしたビスケットの中央にアーモンドクリームが入っているんですよ。人気のお菓子です」

「あれは食べたことないですね。どんな味なんでしょう」

「買いましょう」とヨルはにっこりと微笑んでいった。


 少し離れたところにいた店主が二人に気付いて、近寄ってきて、

「こんにちは、いらっしゃい」と威勢のいい声で挨拶をした。

 エリアはその声にびくっと驚いて後ずさりしてヨルの後ろに隠れてしまった。

「ああ、すまん。怖がらせちゃったかな」

「いえいえ、気にしないでください。これもらえますか。あとこれも」といって、先ほどのビスケットのお菓子と、隣にあったチョコレートを指さして言った。

「はいよ」といって店主は手際よく包装するとヨルにそれを手渡した。

「ありがとうございます」


 ヨルはエリアをつれて、少し離れた場所にあった噴水のある広場に歩いていった。そして、周りに人が少ない場所にあるベンチを見つけるとそこに二人で座った。

「大丈夫でしたか」とヨルは心配そうに聞いた。

「はい、大丈夫です。あれくらいならたいしたことはありません」とエリアは落ち着いた様子で言った。そして、

「それより、さっき買ったものを見せてください。あもんどばとね?というのだけでなくて、別のも買っていましたよね」と好奇心を抑えきれないという顔でヨルに尋ねた。

 ヨルは紙の包装を開けると買ったものをエリアに見せた。

「これは見た通りチョコレートのお菓子なんですが、これも中にアーモンドクリームが入っているんです」

「へえ、おいしそうですね。こちらにもアーモンドクリームが。アーモンドが人気なんですか」

「はい、この街の名物ですから。お菓子だけじゃなくて、いろんな料理に使われるんですよ。そうだ、エリア様はアーモンドの花を見たことありますか」

「いえ、ないです。どんな花なんでしょう」

「それは、白い可憐な花ですよ」とヨルが言うと、花好きのエリアらしくぱあっと明るい表情になり目を輝かせた。

「城壁から外に出て、南東に少し行ったところにアーモンドの丘という場所があって、そこはアーモンドの木がたくさん生えているのですが、その花が咲く季節に行くと一面、白い花が咲いていて、それは美しいんです」

「ヨルはそれを見たことがあるんですね」

「ええ、前に一度だけ」

「誰かと一緒にですか?」

「いいえ、一人でです。あれは初めて私がこの都市にやってきたときのことです。たまたま、通りかかったんですよ」

「いいなあ、わたしも見てみたいな」

「よければいつか一緒に行きましょう。まだ季節は先ですが」

「本当ですか?」とエリアは、いつもより大きな声になって言った。

「はい、是非。お花の大好きなエリア様にはお見せしたい風景ですから」

「絶対ですよ。わたしは忘れませんからね」と言った。

 ヨルがお菓子を勧めると、エリアはそれを手に取って、上品な仕草で一つ一つゆっくり口にした。


 エリアがお菓子を食べながらあたりを見回すと、「あっ」と驚いたような声を出した。

「どうしたんですか」とヨルが聞くと、

 エリアは食べているお菓子をすべて飲み込んでから言った。

「ここって、わたしの知っている場所です」

「え、そうなんですか?」とヨルは驚いて聞き返した。

「はい、といっても、来たことがあるわけではないんですが。絵です。わたしの部屋にはちょうどここの風景を描いた絵が飾ってあるんです」

「へえ、そうなんですね」

「ずっと素敵な場所だなと思って見てたんですが、こんな近くにあったんですね」

 そう言うとエリアは、じっと前方を見ていたが、やがてその目から涙がこぼれた。エリアは自分の涙に気づくと、すぐにハンカチでぬぐい、「すいません」と小さく言った。


「なんで涙が出るのかわからないのですが、ずっとこんなふうな日が来ればいいなと思っていた時間がここにあって、それが本当なんだなと思うと信じられないような、でも嬉しくて、なぜかそれで涙が。変ですね」

 ヨルはその言葉を聞いて、胸の奥が温かくなるのを感じた。

「こんな気持ちになっていいんでしょうか」とエリアは言った。

「はい」とヨルは答えた。

「それにしても風が気持ちいいですね。なんだかゆったりとした気分です」といってエリアは目を瞑って気持ちよさそうな表情を浮かべていた。


「わたしの部屋には絵がたくさんあるんです。どれも風景画なんですが」とエリアは話をしはじめた。

「そうなんですか」

「その絵は全部、お母様が用意してくださったものだそうです。わたしはずっとそれらの絵を見て、ひとつひとつこれはどういう場所なんだろうって想像して、今思うと結構それに助けられたなって思うんですけど」

「とてもいい話です」とヨルは言った。

「わたしは周りの人にずいぶん恵まれていたんだなって。でもそれに気づかず、わたしは自分がなんでこんなに不幸なんだろうってずっとそればかりを考えていました。ひどく自分勝手ですよね」

 ヨルは首を振った。

 ヨルはエリアの言葉を否定することを何か言いたかったが、何を言ってもうまく伝わらない気がして、もどかしくなった。


 エリアは立ち上がって言った。

「さあ、もう少しいろいろ回ってみたいです。先ほど、歩いている時に通りがかったお店に気になるものがあって、それを見に行きたいのですが」

「いいですね、行きましょう」

「あちらです」とエリアが指をさすと、二人は並んで歩き始めた。


 ヨルは、傍らを歩くエリアの姿を見た。

 服装自体は、街で買い物をするためにお洒落をしてきた女性と言った感じで、ここでは自然なものに見える。しかしそれでも、その歩き方、なにげない仕草には、優雅さや気品が漂っていて、とても平凡な身分の女性には見えない。

 きっと周りの人も彼女が高貴な身分であることを察しているのだろうとヨルは思った。王女様だとは思っていないだろうけど。


「ここです」と言ってエリアが足を止めた。

 そこは、絵はがきが並べてある露店だった。

 店主は、二十代後半の男のように見えた。こちらには気を止めず、奥の方の日陰で本を読んでいた。

「絵はがきですか」とヨルは微笑んでいった。

「これは全部この街の風景ですよね」とエリアはヨルに尋ねた。

「はい」

「見てください。これは先ほどいた噴水広場じゃないですか?」

「本当だ。そう見えます」

「これは欲しいですね。あとこれと、これと」と言って、エリアは時間をかけて選んでいった。


「すみません」とヨルが奥の店主に声をかけた。

 店主が近づいてくると、エリアはまたヨルの後ろに隠れた。

 店主の男は、長髪で背が高く無愛想な態度だったので、ヨルも少し緊張した。

 お金を払って、商品を受け取ると、

「あの、これ」と言って、店主が何かをヨルに渡した。それは小さな紙で地図が書いてあるようだった。

「俺のアトリエの場所。他にもいろいろ絵があるからよかったら」と男は言って、ぎこちない笑顔を見せた。

 ヨルの後ろで、エリアが少し顔を出したような気がした。

「ありがとうございます。ぜひまた伺います」とヨルはいつもの柔らかい笑顔で答えた。


 二人は、店を離れ、また通りを歩き出した。

「あの方は画家さんなんですね」

「はい、そのようです」

「ぜひとも、わたしも行ってみたいです」

「いいと思います」

「それで、気に入った絵があったら買って、お母様にお贈りしたいです」

「絶対に喜ばれますね」

「ですかね。だといいのですが」とエリアは、少し心配そうに笑顔を浮かべた。


 道沿いに服屋が並ぶ一画にさしかかると、エリアは興味深そうに店の中や表に飾ってある服装を眺めた。

 マネキンに全身一揃いの衣類がセットされているものがどの店にも二、三置かれている。

 その中の一つを指さして、エリアは、

「ねえ、あれはお姉さまのお気に入りの服に似ていますね」と言った。

 それは確かに、ミランダ王女が仲のいいお友達とのお茶会でよく着ている服装に似ていた。

 でもそれは不思議なことではなかった。なぜならミランダ王女は、上流階級の女性たちの間で憧れの的になっていて、ミランダ王女のような服装をすることが、そのままイコールお洒落だと見なされていたのである。

 そして上流階級で流行ったものは、少ししてから都会に住む流行に敏感な人々に広がるので、エリアの姉のお気に入りの洋服が、今まさに王都で流行の最先端ファッションとなっていたのである。


「素敵ですね」とエリアは目を輝かせて店に並んだ洋服を歩きながら眺めていた。

 それは、エリア王女の部屋のクローゼットに並ぶ立派な洋服の数々を考えると嫌みにすら思える。とはいえ彼女はそういうつもりはなく、ただ、きらきらとした街並みを歩きながらするショッピングという行為がもつ魅力を感じていたのだった。


「あ、ここは」とエリアが急に立ち止まった。

 そこは重厚な石造りの三階建ての建物で、一階は本屋のようだった。表にも、古本が積み重ねられた箱が幾つも雑な感じで並べられている。

「ヨルは本が好きでしたよね」とヨルの顔を見てエリアは言った。

「はい、よくご存知で」

「ヨルのお部屋には本がたくさんありますからね。ここに入りましょう」

「いいんですか?」

「わたしの興味ある場所ばかりに行っていましたから、ヨルの行きたい場所にも行かなくては」

「私のことは気にしなくてもいいんですよ」

「ふふ、わたしも本は興味あったんですよ。それほどたくさんは読みませんが」

 二人は店の中に入った。


「せっかくなので、ヨルの好きな本を教えてもらえませんか」

「私のですか? そうですね」といって本棚の間を二人は歩いていった。

 ヨルは普段の柔らかな表情と違い、少し真剣に本を順番に見ている。エリアはそんなヨルの表情が新鮮で、なぜか目が離せなくなった。

「これとか、好きですね」と立ち止まって言った。

「え、ああ。どれどれ」とエリアは一瞬驚いて立ち止まり、ヨルの示した本を見た。

「『夜間飛行』ですか。なんだか素敵な題名です」

「本当ですか」とヨルは、珍しく照れたような表情で言った。エリアはそれを見て、にこにこと笑顔になった。

「読んでみたいので買いますね」とエリアは手に取ったまま歩き出した。

「ああ、でも、そんなに明るい雰囲気ではないしエリア様が楽しんでいただけるかはわかりませんが」

「いいんですよ。読んでみたいです」

「それならいいですが」


 エリアは店の主のところに近づいていくと、振り向いて、

「すみません、まだわたし」と言って、ヨルに本を差し出した。

「構いませんよ。私がやります」といって店主に支払いをした。


 店から出るときにエリアが、「すみません、毎回迷惑をおかけして」とエリアは申し訳なさそうにヨルに言った。それから、エリアは不安そうな表情で、

「まだ人と話すのは怖いのですが、いつかきっと。次回はきっと。だから見捨てないでください」と懇願するような口調で言った。

「そんなそんな。ゆっくりでいいですよ。何十回、何百回でもこれくらいならお付き合いしますから、無理しないでください」

 エリアは顔を伏せて、

「まったく。ヨルは安請け合いしないでください」と小さく呟いた。

 エリアは少し早足になり、ヨルも遅れないように付いていった。



 本屋から出ると、外は日が傾いていて、空はうっすらと赤みがかった黄色になっていた。

「もう夕方なんですね」とエリアは空を見上げて言った。

「少し休んだら、お城に帰りましょうか」とヨルが言うと、エリアは少し寂しそうな表情をして、

「今日は楽しかったです」と言った。

「それならよかったです」

「ヨルはどうでしたか?」

「私ですか。私も楽しかったですよ」

「ヨルはいつもやさしいですね」

 ヨルは首を振って、「本当ですよ」と言ったが、エリアは完全には信じられないという表情だった。


「あそこならよさそうですね」といってエリアが、少し進んだところにある広場を指さした。「ベンチもあるようですし」

 その広場に辿りついて、「ここは」とヨルが驚いたのは、広場の中央に、ある銅像があったことにだった。それは、昔この王都を救ったとされる「勇者」の銅像だった。

 この二人が一日の終わりに、「勇者」の銅像に巡り合うとは、ヨルは因縁を感じずにはいられなかった。

 エリアがヨルの視線に気づくと、「これは?」と言って銅像に近づいて、説明の書いてあるプレートを読んだ。

「昔の勇者さまの銅像なんですね」とエリアは言った。

 ヨルはエリアがそれを見て、ショックを受けたりしないか心配したが、それほど気にせずに近くのベンチに座ったので安心した。

「今日は楽しかったですね」と言って、エリアは今日買った絵はがきをとり出して見始めた。にこにこして絵はがきを見ている姿は、どこでもいる子どものようだった。


 しばらくすると、エリアは顔を上げて、目の前にある勇者像を眺めた。

「わたしは小さい頃ずっと、いつか勇者様が現れて私の手を引いて連れ出してくれると思ってたんです。つらいときもずっと待っていたんです」

 そう言って、彼女は片手を前に銅像の方に差し出すように伸ばした。


「それは予言の」

「はい。あの予言のせいで私は苦しんだのに、変な話ですよね。実際のところは、わたしもあの予言にすがっていたんです。誰かが目の前の重い扉を開けてくれるのをわたしはただじっと待っていた。でも私はあるとき、お城の中を一人で歩いていたんですが、大きな声で誰かが怒っている声を聞きました」

「もしかしてそれは」

「はい、ヨルです」

「それはすみませんでした。お恥ずかしい」とヨルは申し訳なさそうにした。


「いいえ、確かに最初は少し怖かったですが、でもなぜか妙に気になって、遠くからその内容を少し聞いていたんですが、それは驚くことにわたしのことだったんです。わたしを悪く言う人たちに対して、ヨルが怒っていました。それで少し近づいて見ると、ヨルはたった一人で五人ほどの大人を相手にしていて。それを目にした瞬間、わたしは自分の中で何かが決壊したような、なにかが溢れるような気持ちになりました。わたしの代わりにわたしのためにこんなに怒っている人がいる、しかも一人なのに怯むことなく、それはそのときの私には考えもつかなかった光景で……」

 エリアの目は少し潤んでいるようだった。

「それですぐにわたしは自分の部屋に戻って、それで涙がぽろぽろ出て止まらなくなったんです。声をあげて泣きました。胸にあった固いものがほぐれていくような、冷たいものがゆっくり溶けていくような、嵐がわたしのなかを通りすぎていくような感じがしたのですが、それが終わると、久しぶりにすっきりと目が覚めたような気がして、ある決心をしていました」

 そう言って、エリアはヨルの方を見て微笑んだ。

「あの人とだけは、普通に話せるようになって、わたしのためにしてくれたことを返せるようにしたい。そう思って毎日、あなたに話をしようとしつこいぐらい行動をするようにしました。ご迷惑でしたでしょうけど」


 ヨルは首を振った。

「わたしはそれからは予言の勇者様のことは考えなくなりました。こうして過去の勇者様の像をみても、別に昔のような気持ちは湧きません。その代わり……いえ」とエリアは一度言葉を切り、それから「ヨルは実は勇者様だったりしないですよね」と冗談めかして言った。

 ヨルはそのエリアの言葉を聞いて、平常心を失いそうになったが、平然とした様子をなんとか維持して、答えた。

「はい、違いますよ。私はヨルという名前のただの平凡な人間です」

 エリアは、それを聞いて、満足そうに頷いた。


「わたしも平凡な、一人の人間。わたしにとってヨルは、ある意味勇者様みたいなものだと、今でも言う人はいますし、わたしもそう思うこともたまにはありました。でも、ヨルは勇者様ではないし、それでよかったな、と思うんです。だって勇者様を待つことをやめてからのほうが、ずっとわたしらしくなったと思うし、勇者様の後ろを付いていく人生を送るより、今みたいに自分で行き先を決めて進んでいく方が、ちゃんと生きている気持ちがします」

「今日のお出かけもエリア様が言い出したことですしね」

「ふふふ」とエリアは笑った。


「すみません、こんなふうに長々と話をしてしまって。少し話すつもりが、止まらなくなってしまいました」

 と言って、エリアは立ち上がり、銅像の方に何歩か近づいた。

「予言を聞かされたばかりのころは、執事に勇者様の役をやってもらってよく遊んでいました。今思うと、なんだか馬鹿馬鹿しいですけど、あの時は確かに憧れていたんですね」

 

 一方のヨルはベンチに座ったまま、エリアの後ろ姿を見ながら、自分が実は勇者であることについて考えさせられていた。

 エリア様は、勇者が現れなかったおかげで、予言が作り出した呪縛から逃れられたと思っている。しかし、彼女の唯一の話し相手と言われている自分が、実は勇者であるというのはなんという皮肉だろう。

 私も勇者であることを隠していればごく平凡な人生を送れると思っていたのに、図らずも勇者がいるべき場所に立っている形になっている。


 予言というのもなかなか侮れないな。

 今のところ、私もエリア様も、予言とは関係のないありきたりの日常を過ごせているようだが、私が勇者である限り、予言の暗い影は私たちのところまで気づかないうちに伸びてきて、どうにもならない運命の渦に私たちを引きずり込もうとするのではないだろうか。

 そして、結局予言の言う通り、私は勇者として、エリア様は救世の巫女として、この世界を救うために恐ろしい戦いに身を委ねなければならないとしたら。それにエリア様は耐えられるのだろうか。


 もしかしたら、私はエリア王女様の近くにいるべきではないかもしれない。

 そうすれば予言も、そのまま実現しないだろう。

 エリア様も今はたまたま話しやすい私のようなものを相手してくれているが、これから成長して、トラウマも克服して、自信に満ち溢れた王女様になったら、私のようなものは釣り合わないだろう。

 エリア様が小さい頃に憧れていた勇者はきっと、私なんかと違って、たくましくて頼りがいがあって、勇敢な人物なのだ。エリア様が憧れたような勇者が現れたら私はきっと、そっと身を引いてこの王都から出ていくことになるだろう。


 それは寂しい気もするが、でも当然のことなのだ。私は、前の世界でも、この世界でも平凡で退屈な人間なのだ。あんな美しい王女様と同じ空間にいて同じ空気を吸っていることが自分にとって場違いなことなのだ。

 でもせめて、エリア様のおそばにいる間に、アーモンドの丘に行きたいな。あれ本当に綺麗な風景だった。

 

 いつかエリア様が憧れる勇者様のような人が現れたら、どんな顔をするのだろう。


 エリアは、ヨルが座っているベンチから数歩先で、後ろに手を組んで、体を少し傾けて見上げるようにして勇者像をじっくりと眺めていた。

 ヨルはそんなエリアに向かって言った。

「ねえ、エリア様、もし今、目の前に勇者様が現れて『私と一緒に来てください』と言われたらどうします? 小さい頃に憧れたような立派な勇者が」

 エリアはゆっくりと振り向くと、少し不思議そうな表情をした。

 ヨルは自分の言った言葉を後悔した。彼女を困らせる質問をしたと思ったのだ。それはヨル自身でも思いがけず口をついて出てきた言葉だった。

 周りは人がいないのか、水を打ったように静かだ。


 しかし、エリアは案外迷った顔をみせず、座っているヨルの前に歩いてきて、

「決まっています」

 と言いながら、右手を伸ばしヨルの左手を掴んだ。


 エリアは「さあ」というように笑顔を見せて、手を軽く引っ張ったのでヨルは立ち上がった。そして体の向きを変えて勇者像のほうに歩き出した。

 ヨルは、彼女が歩き出すのにすぐには反応できず一瞬転びかけたが、踏みとどまり追いかけるように歩き出した。

 エリアはこちらを正面に向いた勇者像の前で立ち止まり、その像に向かって、

「ごめんなさい」

 と頭を下げた。

 そして、エリアは再び歩き出し、勇者像の脇を通り抜けていった。

 その足取りは力強く、ヨルは手を引かれながら後ろをついて歩いていくのだった。

 振り返ると堂々とした勇者の背中が遠ざかっていくのが見えた。


 歩いく先の空は燃えるようなあかね色に一面染まり、都市を囲む黒々とした城壁の直線が空の下を区切っている。

 ヨルは、これほどまでに美しい景色は見たことがないと思った。

 なにもかも赤く輝いている。石畳の道も、街灯も、建物の壁も、うち捨てられた樽も、唐紅に染め上げられて、真っ赤な別の世界に迷い込んだような気がして、心細い気すらする。

 そんななか、目の前に歩く王女様はどこまで歩いていくのだろう。いや、きっとどこまでもだ。どこまでも止まらずに歩いていこうとしているだとヨルは思った。

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