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薄暮

作者: 芹沢 忍

他サイドからの転載になります。

 一面が(だいだい)に染まる。

 暖かな空が徐々に闇を孕み、

 青黒い色が光を喰らう。


 景色は次第に色褪せ、

 山の端は赤く燃え上がる。


 それが何処か血を思わせ、

 たゑ(たえ)の胸をざわつかせた。


 こんな時刻に出掛けるなど、夫にばれたら何と言われるか。恐らく危険だと咎められるだろう。


 臥せった夫は、煎じ薬で眠っている。起きるまでは時間がある。それまでに戻ってくればいい。たゑは夜気に着物の合わせを寄せた。


 こんな事はするべきではない。解ってはいるが、たゑには止められなかった。


 近くの小山の頂に(どう)がある。

 そこにおられる高徳(こうとく)様に用がある。

 高徳様のお力におすがりするしか、

 もう、手は残っていないのだ。


 夫が血を吐いた。

 

 熱や咳を繰り返していたが、まさか、血を吐くとは思っていなかった。


 日中の野良(のら)での事であり、事実はすぐに周囲へ知れた。


 この病は人に移る。村長むらおさは夫とたゑを村外れの納屋へと移らせた。病気の蔓延を防ぐ為だ。 その事自体は仕方がないと思っている。


 苦しむ夫の姿を見るのが辛い。


 咳き込み、食も細くなっていた。下の世話も自ら出来なくなり、好意で与えられた鶏の卵でさえ口にすることが出来ぬようになると、後は枯れていくしかない。


 せめて苦しまぬように逝かせてやりたいが、労咳(ろうがい)ではそれも難しい。一縷の望みをかけて、たゑは高徳様の元へと向かう決意を固めた。


 高徳様が疫病や飢饉に苦しむ村人の為に入定にゅうじょうしたのは、たゑがまだ幼い頃である。そのおかげか、たゑが娘になる時分には、流行り病も去り、村人が飢える事も殆ど無かった。


 高徳様は、

 憐れんで下さるに違いない。


 夫を救って欲しい一心で、たゑは薄暮(はくぼ)の山道を小走りで急いだ。


 息が上がる。それでもこの苦しみは夫のものよりは格段に軽いのだ。


 一息毎に、ひゅーひゅーと漏れる呼気は、聞いているだけでも切ない。

 寝ている夫が咳き込む度に、喉が詰まって、果ててしまわないかと、不安で押し潰されそうになる。吐いた血を見ると、命が流れ出てしまう気がする。


 たゑが不安そうに顔を歪めると、夫は無理をして笑う。()けた顔が闘病の疲れを強く物語っている。


 苦しい。


 そんな一言も云わぬ夫が不憫で、たゑは側屋(かわや)へ行く振りをし、納屋を出ると目元を拭う日々を過ごしてきたのだ。

 

 山道に難儀しながらも、たゑは堂へと辿り着いた。薄闇が支配しはじめる山頂には、小さいが、村で集めた精一杯の財を注ぎ込んだ、立派な堂が残日(ざんじつ)を浴びて待っていた。


 村人の安寧を祈った高徳様ならば、

 夫は助かるかもしれない。


 たゑがそう思ったのには理由(わけ)があった。


  ※ ※ ※


 誰かから聞いたのであろうか。行商の薬売りが、夕刻訪ねて来たことがあった。


 男は図々しくも納屋の中まで押し入って、夫の様子を覗き見た。そうして、丁度良い薬の持ち合わせがあると、たゑに耳打ちしたのだ。


木乃伊(みいら)だよ。労咳には効果絶大だ」


 たゑも聞いたことがあった。不老長寿の仙薬で、どんな病にも効果がある。しかし、その値段はとても手が出せるものではなかった。


「銭は無い。買える訳がない」

 たゑは悔しさに唇を噛んだ。


 そんなたゑを男が見据える。

 頭から身体の端々まで。

 ねば着くような目線が

 たゑの怖気(おぞけ)を誘った。


 男の手がたゑの膝頭に延びる。


「亭主がこんななんだ。

 夜はさぞかし淋しいだろうな。

 俺が相手をしてもいいぞ」


 薬売りはにじり寄り、息が掛かる程に身体(からだ)を近づける。たゑは身を捩って避けた。それが男を焚き付けた。


 手首を掴まれ、乱暴に引き寄せられる。均衡を崩され、たゑは男の手に落ちた。


 無理矢理足を割られ、事を為された後、薬売りは、花代だと言って、数包の薬を投げるように置いていった。


 幸いにもと言って良いのか判らぬが、熱に浮かされていた夫は、納屋の隅での行為には気付かなかった。


 身形(みなり)を整え、たゑは夫の枕辺に惚けた様で座り込み、熱の合間に目覚めた夫へ、薬売りが投げ置いた薬を煎じて飲ませたのである。

 

 その薬は効き目を現した。目覚めた夫は久方ぶりに床から出る事が出来たのだ。


 薬売りが置いていったのは、

 木乃伊であると、

 たゑは信じたのである。


  ※ ※ ※

 

 山頂には入り日の残宰(ざんし)がある。堂は緋色に焼け、燃え立つようであった。一時、たゑは立ちすくんだ。

 

 燃える緋は、 

 まるで、

 業火の炎ではないか。


 自分がこれから踏み込むのは、

 逃れられない罪への道だ。


 それが一縷の望みであったとしても

 決して許されるものでは無いのだ。


 決意が鈍る。

 それでも、

 ここまで来てしまった。


 恐る恐る、たゑは堂へ、

 高徳様のおられる所へと

 歩みを進めた。


 堂はひっそりとしており、

 二重に作られた扉の奥に、

 小さく干からびた姿が見える。


 薄暮の空と対をなすような緋色の衣。金の刺繍が一面に施された頭巾。即身仏となられた高徳様だ。


 たゑは高徳様に訴えた。


 どうか、夫を助けて下さい。

 苦しむ夫を救って下さい。

 そして、私を許して下さい。


 薄い闇が扉を染めはじめる。

 たゑは急いで扉の内に入った。


 直に対峙した高徳様は、枯れ枝のような腕をしてた。頭巾の下には、暗く落ち窪んだ眼窩。殆ど肉の無い顔。座した姿は小さく老いた人のようである。


 斜陽の光が堂の床を舐めるように照らす。自分の影が高徳樣に被り、たゑは闇を踏むようにして近付いた。


 座して拝む。

 額付(ぬかづ)き詫びる。


 そうしてから(たもと)の小刀を取り出した。


 民の安寧を祈る腕に、たゑは自分の手を添えた。高僧の衣の袖を捲り上げ、その枯れた腕に小刀を当てると、刃を手前に引いた。思いのほか多くの欠片が削げ、たゑの着物に乗る。


 一瞬、嫌悪で身を引くが、それが夫の救いであると思い出し、慌てて小刀を放ると、人の身体の一部であった物を、帯に挟んであった手拭いに取り、丁寧に包み込み、胸元に入れた。


 削いだ腕は血も出ない。干した魚のようである。

 欠損した部分は深く大きい。たゑは高徳樣の着物の袖口を戻し、欠いた箇所を衣で覆い直した。


 再び額付き赦しを乞う。


 後は何事も無かったように村へと戻るだけであった。


 下りの山道は薄暗く、

 急いでいるためか、

 息が辛く、胸が痛んだ。


 下方の村は既に闇に呑まれている。

 不安を圧し殺しながら

 たゑは駆けた。

 

 駆けて駆けて村の端へと着くと、

 何処か違和感を覚える。

 呼吸を整える。


 それでも何かが落ち着かぬ。

 喉が乾いていた。

 そして、えずいた。


 食欲が無く、あまり飯を喰っていない筈だが、何かが奥より吐き出される。


 地に放たれた物は、

 乾いた土に染み、

 黒ずんだ模様となった。


 鼻についたのは、

 嫌と云うほど嗅ぎ馴れた

 鉄錆びの臭い。

 胸が不規則に鼓動を打つ。


 たゑはその場に(くずお)れ、

 土を掻きむしった。

 

 日は完全に沈み、

 周囲は暗く闇に堕ちた。

ノベルアップ+のエッセイに(小説の)書き方についてといった内容のものを書きました。その際に解説した作品になります。

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