1 死んだ?
死んだら、天国か地獄に行く。
誰もが聞いたことがある話で、誰もが死んでみないと分からない話。詳しく言うと、死人に口なしなので、教えてくれる人なんていない。
今日、2020/07/22、秋園 藤は死んでしまった。本人としては認めたくないので、死んでしまったかもしれない、と言い張ろう。
ベッドに横たわり、枕に涎を垂らして眠るのは高校2年生の女だ。未成年の割には大人びた顔立ちだ。枝毛のある黒髪を枕に散らして、起きる気配はない。
160㎝は越える身体は、体育会系の肉付きではないが、太っている訳ではない。要は、ダイエットはしてないが、ギリギリ太るのを押さえきれている体型だ。
彼女を、自分を、上から見ている。意識が覚醒した時からずっと。
「これが噂に聞く幽体離脱。凄い。自慢できる」
藤はふふんっと鼻を鳴らした。何回目かになる現実逃避をした後に、大きく息を吐いた。
そして、本心を大音量で伝えた。
「おばあちゃぁぁぁん!!!助けてぇぇぇぇ!!!身体に帰れないよぉぉぉ!!!!」
朝、いつもより早起きしたなと思った。しかし、高い視界の中で下を向くと、自分がもう1人いるのが見える。持ち上げた腕は透き通っていて、向こうの壁が過不足なく見えた。
これは幽体離脱だと、藤は判断した。それから、少しはしゃいだ彼女だが起床時間が近づいていることに気づき、透き通った身体を肉体に戻そうとしていた。
無理だった。
遂には、起きる時間が来てしまう。一緒に暮らす祖母に助けを求めるも、声が聞こえるはずがない。何故か?答えは明確。透けている、つまり霊体。
目覚まし時計が鳴り始めた。ジリジリと主人を起こすまで、ベルは止まらない。震える目覚まし時計と一緒に、藤は頭を振っていた。
「あーーーー!!どうすればぁーーー!!」
「1人発見。今日、多いな」
半狂乱な藤は気付かないが、ここに侵入者が1人いた。
音を立てず、窓を開けず、窓という障害物なんて無いように、侵入者は物質を通り抜けた。
パニックになった藤は、全くそのことに気付いていない。
「クソッ!戻れゴラ!!この、なんでよ!?」
「ーーーー、嘘。え?は?」
「なんで戻らないの?ーーー、あれか?キスすれば良いのか!?」
「そんなシーン見たくないけど!?」
ジリジリ、ジリジリッ!と目覚まし時計は鳴り続ける。起きているのに、鳴る機械を止める手立てはなく、どうしようもない。頭を抱え込んだ状態で、チラリと時計を見る。無性に腹が立ってきた。
「起きてるよ!!!」
五月蝿い目覚まし時計に向けて、浮いてる高所から蹴りを放つ。それは、藤が気付きもしなかった侵入者の顎に綺麗にヒットした。侵入者も、海底にいる生物を見る目で彼女を見ていた為、その蹴りを避けることが出来なかった。
しかし、流石の藤もこれで、侵入者に気付くことになった。
「いっ!たぁ、」
「ひっ」
いきなりの打撃にひっくり返る侵入者と、当たった感触にビビる藤。
顎を押さえながら侵入者は起き上がった。顎を気にする手とは、反対の手を彼女の方に伸ばす。何かを話しかけようとした侵入者だが、ゾンビ映画の1人目の被害者並みに混乱した藤には逆効果だ。
「!?」
「ま、待っ」
藤、窓を通り抜けて逃亡を選択。
窓を通り抜けれたことは置いておき、道路に着地する。そのまま、走る。パジャマ姿にも関わらず、誰もそれに触れない。彼らの目には藤なんか見えてないのだ。
そのことが心に突き刺さるが、足は止まらない。
何も考えず走ると、知ってる道を行くようで、いつの間にか立っているのは、高校の前。登校する学生の中に、友人を見かけ、手を伸ばすも、その手はその子を通り抜けた。
引き攣るような声が喉から漏れたが、誰も藤を振り返ることはなかった。
「わ、私、なんでこんな目に」
答えてくれる人は居なく、逃げるように校門に背を向けた。
残念なことに判断力と観察力が擦り減った彼女には、その背に疑問の視線を投げる人がいたのを、気付けなかった。
当てもなく歩き続き、公園にたどり着く。藤は裸足なのに汚れがない足を眺めながら、無人の遊び場でボケっと空を眺めた。
すると、忌避していた事さえ考えてしまう。今まで幽体離脱、もしくは夢だと決めつけて、初めに思い当たったことから目を背けていた。まさか有り得ないという否定の思いと、そんな事実は嫌だという胸が痛くなる懇願が、思考を停止させる。
だが、この状況が続いているからには、考えなければいけない。
つまり、簡単に言うと、自分は死んでいるのではないか、という結論だ。
「いや、でも、健康優良児なのに」
「こんな所に居た」
先程、顎を蹴り上げた侵入者の声がした。すぐさま逃げを打とうとした藤だが、侵入者が前に立ち塞がる。
「っ!」
「待って下さい。僕は迎えに来たのです」
考えてみると、声を聞いてただけで、姿をしっかり見てなかった。
改めて見る。そこにいたのは、黒のロングジャケットを身につけた小柄な少女だった。丸みを帯びたショートの黒髪は、前髪は斜めに流されている。椿の花のように、惜しみのない赤色の瞳と、変わることのない表情は冷たく感じられる。
可愛らしい顔はやや幼く、背丈を考慮すると、藤には自分より年下か同い年に見えた。
藤は不可解な言葉を口にした少女に、疑問を投げかける。
「迎えに?どういう意味なの?というか、幽霊の私が見えている?」
「詳しく言うと、魂だ。僕は貴女が見えるし、触れられる。さぁ、来てもらいますよ」
ジャケットのポケットを探り、少女が取り出したのは手に収まるような箱だ。
彼女は箱を藤に向け、パカリと開いた。
中にあったのは、底なんてない黒。さらに、墨汁が半紙に滲んでいく速さで、黒が漏れ出す。闇が2人を飲み込まんと広がった。逃げ出すよりも、風景を塗り替えていく黒に、思わず目を閉じた。
「っ!、ーーー、ん?」
闇に飲み込まれたのだろう。しかし、恐れていた痛い感触などはなく、恐る恐る瞼を開けた。
全く知らない場所に藤は立っていた。
「あれ?」
「こっち」
人が行き交う中を、少女に手を引かれる。
高い天井についたシャンデリアも、人が10人並んで入れそうな扉も、書類を抱え走る人たちも、体格の良いロングジャケットの方々や虚な目をした人たちも全く知らない。
床も壁も真っ白なそこは、旅行雑誌で見たギリシャの町を思い出した。
「ここは?」
「魂の〈欠片〉の置き場所。天国と地獄の間。浄罪界です。人間には死後の世界と言った方が良いでしょうか」
じょうざいかい。言葉と説明を頭の中で反復する。
とりあえず、自分が死んでいるのが分かった。スローモーションで水滴が落ちるのを見るように、ゆっくりと藤の中で、その事実は広がっていった。
「私、死んだんだ」
「ーーーー。はい」
彼女は静かな目で頷いた。憐れみよりも、強く人を悼む優しさがあった。懐かしいような視線に触れ、藤は気付くと微笑んでいた。
さらに奥へと足を進める。
「これから、何するの?」
「まず、地獄に行くべきかどうか見ます。本当は大人数居るので、流れ作業でするのですが、貴女逃げたから」
「それは、本当にごめん。慌てて」
「時々いるから大丈夫。まぁ、こんなに意思疎通を取れるのは、初めてだけど。ここだ」
着いたのは、大きい鏡だけがある部屋だ。その他には何もない。鏡をよく見ると、目立った装飾はなく、外枠の淵に細かく模様が彫られている。
彼女に背中を押されて、光る鏡の前に立つ藤。鏡は姿を映したと思えば、コーヒーとミルクをかき混ぜているように渦が広がった。
しかし、それも束の間。渦が止まり、白い文字が浮かんで、
「え?」
ピシリ。少女が、音を立てて固まった。二度見、三度見しているが、「え!?」ともう一度言い、藤の方を向いた。藤も訳も分からず、少女の赤い瞳を見つめる。本当に椿のように赤い瞳だ。
暢気に少女を観察している藤とは、対照的にわなわなと震え出した彼女は、吠えた。
「貴女!」
「は、はい!?」
「なんで、肉体から魂が出てるのに死んでないんだ!?」
今度は、藤が固まった。ここまで連れてきてくれた彼女に言いたい。
そんなの分かりません。
拝啓、おばあちゃん
今までお世話になりました。と言うべきだったなと思ったんだけど、まだお世話になりそうです。
貴女の孫より