願望たるや 03
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問うのだ 誰かが助けてくれただろうかと
問うのだ 他に方法はあったのだろうかと
目の前で親友が溺れ死んだ時、男マンナは何も出来なかった。目の前に現れた”死”という概念にあてられ恐怖し声も上げられなかった。
参列した葬儀で白くなった彼を見た時も、さらにそれはいっそう彼に濃い影を落とした。眠るように目を伏せ、微動だにしない彼はもう別の”何か”に姿を変えていた。
まだ若い彼には理解が追いつかず、ただただ家族に、自身にいずれ襲いかかる”死”に怯えた。誰もが一度は思い恐怖するそれは、彼の一生の傷となった。
迫りくる恐怖から逃げる為に彼は毎朝毎晩、本を開き人に尋ねた。そして、成人すると各地を歩いて回りそれこそ人生を捧げるほどに研究に費やした。
小動物の命を捧げるだけではなく汚れた床に白いチョークで模様を描いたのは、外から知的生命体を呼んで知識を得るためだ。
それが成功した時、現れた存在に彼は失禁こそしてしまったが、意思疎通は問題なく行えた。外の物は哀れな彼の問いかけを真摯に答えた。
「願いを叶えるといい。私ではない、誰かなら」
二度目の召喚は、その数ヶ月後に行われた。
生贄として家畜や人を攫ったのがいけなかったらしい。憲兵に追われマンナは森の奥深くへと逃げ込んだ。
あの時と同じように床にチョークで模様を書いたのに現れたのは子供が一人だけ。黒い髪、黒い翼だというのに内側は雪のように白い。爬虫類を思わせる金色の瞳、頬には赤いミミズ腫れが左右に二本づつ伸びている。
小さな来訪者は、哀れなマンナを見て冷笑した。
「はじめまして。可哀想に、キミの気持ちは解るよ。キミが思い願った生き物と違うのだからね。けれど、ボクは一つだけキミの願いを叶えられるようそれなりに努力――……」
そう言い終わらぬうちにマンナはすかさず幼い来訪者を捕らえるとトルネコの木で出来た指輪と繋げた。
その指輪は小さいが、魔物をこの地に結びつけるには十分すぎる程に強力な枷だった。小さな来訪者が元の世界に帰る術を失ったのを確認し、男は声を上げて笑った。
「一つだけだなんてとんでもない。俺は金も名声も愛も捨てたんだ。俺は永遠を生き、願い続ける」
1
海は穏やかで船内はいつも騒がしい。音楽・料理・カジノその他様々な事を乗客たちは楽しんでいる。
食事の時も音楽を聴く時もリュカの近くには必ずティオグの姿があった。
最初こそ自分のためだからと思っていたリュカだったが、段々と嫌気がさし人混みにまぎれ彼を撒くと静かな廊下をのんびり歩いた。
パニックになりよんでしまう怪奇現象は本当に厄介なものだった。自分で制御出来ず友達を傷つける前に師の元へ行った方がいいと、親の説得の元無理矢理船旅に出させられた。
別れ際、母親が涙ながらに「貴方を嫌っているわけではない」と言い、厳格な父親が悲しそうな苦しそうな顔をするのを見て、自分の為だと理解しても結果がこんな不自由な暮らしだと心は荒む。
一緒にいる者は年の離れた兄のような存在だったが、雑談を嫌い買い物もろくに許してくれない。存在が気になると言えば黙って素直に身を引いてはくれるが、四六時中見張られていると思うとさらに気分は滅入った。
「あ、あの時の〜!」
声がしてリュカが振り返るとそこには祭りの時に声をかけた男が二人いる。
「覚えてる? 一緒の船だったんだな!」
「覚えてるよ! ユルでしょう?」
リュカがそう答えるとユルは「わ〜! 覚えてくれてたんだ! ありがとな〜!」と喜びも隠さず彼女の両手を握ってぶんぶん振った。
体躯は自分より少し大きいが、なんだか近所の男の子を思い出させる人懐っこさをしている。
「もう少しで次の島だってさ! 楽しみだな〜!」
「たった一日の観光にもならない暇潰しだろ」
そう言うのは、不機嫌そうなシゲルだ。余程ティオグの力が強かったのか、彼はずっと掴まれた自分の手首を撫でている。
「別に気にしてねぇよ」
心配そうなリュカに気が付いたのか彼はさらに嫌そうな顔で吐き捨てるように言った。
「シゲル、本当はイイ奴なんだよ。でも、性格がひね曲がってるから」
フォローにもならないフォローを入れるユルにシゲルは蹴りを入れた。友達だから出来るやりとりにリュカは笑った。
「おーい。ユルー! シゲルー! カジノに行こうよ〜!」
廊下の遠くで手を振る同年代の少年少女が手を振っている。ユルとシゲルは彼らに手を振りかえした。
「お前も行くか?」と問うユルにシゲルは彼の脇腹を小突く。
「言っても無駄だ。どうせダメなんだろ? なあ」
シゲルの視線の先には蒔いた筈のティオグが立っている。そう言われたティオグは「知っているじゃないか」と笑みを浮かべた。
「残念だな〜! でも、また話そうな!」
ユルは気を悪くせずそう言ったが、シゲルは憎らしげにティオグを一瞥してからその場を去った。
「すまんな。うちの若い奴が」
第三者の声に二人が見ると、そこにはユルの父親がいる。
「家族旅行?」
リュカの問いかけに、彼は笑った。
「いいや、違うさ。同じ傭兵仲間。長期休暇でな。収入もなくて困ると、この船で荷物運びとして雇われている。だが、人選を間違った。こんなに煩いとは思わなかったよ」
そう冗談めかして嘆く男にリュカは笑った。そして、彼も人選を間違えたと称した彼らに呼ばれたのだろう適当に返事をしながらその場を去った。
「で、リュカ」彼らがいなくなったのを確認してからティオグが言った。「人酔いの薬でもいるか?」
リュカは不思議に思ってティオグを見た。
もしかしたら彼は自分が気分が悪くなったから廊下に出たのかと勘違いしてくれたかと思った。だが、彼は意地悪く笑っており、その目は全てを知っているようだった。
「ごめんなさい。一人になりたくて」
「これきりにしてくれ」
リュカは返事も頷くこともせず、自分の頼りない足と手を睨みつけた。
2
「手伝った方がいいかな」
リュカが突然言い出したのでティオグは驚いて彼女を見た。彼女の視線の先には荷物運びにもたついている若い従業員がいる。
「お前は乗客だ。なにも手伝う事はないだろう」
「でも、大変そうだし……」
その従業員は、日々要求がエスカレートする乗客対応にしんそこ疲れているようだった。
ティオグは呆れて従業員とリュカを見比べたが、彼女は困った顔をする割には頑なにその場を動こうとしないのでとうとう彼が折れる事となった。
「手伝うよ」
「お客様にそんなお手数を……」
「俺の雇い主がそう言ってるんだ」
「ありがとうございます。あ、えぇと、俺はペオっていいます。新人の……。その箱に食材を詰めるんですけど、まずそれが重くて……」
「俺も手伝うよ」と、ペオの話を遮ってやって来たのはユルとその父親のニドである。
「気にするなよ。やる事がないしさ」
そう言って笑うユルの頭をニドが容赦なく叩いた。
「気にするんじゃなくてお前がやるんだ。その為に俺らがいるんだろう?」
「だけどさ、人数がいれば仕事も早く終わるだろ?」
笑顔の似合う親子のやりとりをリュカは微笑ましく思い見ている。そうしてティオグとリュカは彼らと一緒に荷物の運搬を手伝うこととなった。
リュカは袋を仕分け、男三人はそれを外へと運び出す作業をしだす。
「あんた護衛って言ってたけど、あの子どこかのお嬢様?」
皮肉なく純粋に尋ねてくるユルにティオグは「まぁ、そんなところさ」と答える。
「シゲル程じゃないけど、可愛い服着た方がいいなあって俺もそう思うよ。真っ赤とか似合いそう」
「人のセンスに口出しするな」
父親に軽く叱られユルは「本人には言わないよ」と笑った。リュカはそれを聞いていたのだろう、耳を真っ赤にしながら仕分けに集中するふりをしている。
「仕分けはいい。買い出しに手伝ってくれないか? 本当にすまないんだが……」
船長のエオに言われて四人は文句も言わず頷いた。
3
立派な港についたつもりだったが、周囲はシンと静まり返り人っ子ひとりいない。振り返る船には楽しそうな話し声や音楽が聞こえるため対照的に思える。
それでも静かな通りを歩き、人の気配を見つけ、近寄れば住人は悲鳴をあげて家の中に飛び込んでしまった。
「海賊の襲撃にでもあったかな」
心配するペオにティオグは首を傾げる。
「それにしては痕跡が見つからない」
不思議そうにしていると一つの家から視線を感じた。カーテンの後ろに隠れてこちらを伺う婦人に気がつき、ティオグが愛想よく挨拶をし近寄る。
婦人はカーテンをしめるか一瞬迷ったようだったが、それでも近寄ってきた彼にたいして頭を下げた。
「食べ物を買わせて欲しいんだ」
「それどころじゃないよ」
「海賊の襲撃にあったんですか?」
「いいや、森に棲む魔法使いにだよ」
婦人はそう言って見えない何かに怯えるように周囲を世話しなく気にしている。
「魔法使い?」
「あぁ、そうだよ。前まではただのイカレ屋だったけれど、本当にイカレてしまった」
「それを俺たちがどうにかすればいいのか?」と、突拍子もなくユルが言ったので他の人たちは驚いた。しかし、ユルに賛同したのはリュカも同じだったらしい。
「どんな魔法を使ってくるんですか?」
「お、おい。リュカ……」
戸惑うティオグにリュカは振り返った。
「もしかしたら私の為になるかもしれない。お願い、ティオグ」
依頼主に懇願されてもティオグは「だが」と渋る。
「これでお前に怪我でもされたら怒られるのは俺だ。お前を危険に晒すのは職務違反になってしまう」
けれど、リュカの目は本気だった。彼女は何も言わず、ただ黙ってティオグを見つめた。
「危ないと思ったらすぐに戻る。お前は俺の傍にいて離れてはいけない。守れないならお前が泣いても連れ帰る」
すっかり折れたティオグがそう言うとリュカは頷いた。
「そんなに言うが、あんたは強いのかい?」
住人の問いかけにユルがティオグの代わりに「護衛なんだ!」と答える。それをこっそり話を聞いていたのだろう。部屋の隅から好奇心に負けた男の子がやってくる。
「気をつけてね。アイツ、人を食べるんだよ」
「人食いもするのか」
自分の子供の話を聞いた婦人は怒りで顔を歪めた。
「お前、またあそこに近寄ったのかい? 死んだらおしまいなんだよ」
「近寄ってはないんだよ。アイツが近くに来たんだ。だから驚いて皆に知らせたんだ。つい一昨日のことだよ。ボクのおかげで皆食べられずに済んだんだ」
必死に言う子供から重大と分かる。
「それで、その魔法使いはどんな魔法を?」
リュカの言葉に子供は少し困っているようだった。考えても言葉が出ないのか、首を傾げて目を泳がせている。
「魔法使いって皆は言ってるけど、魔法を使った姿は見た事ないよ。体も骨と皮しかないし、ご飯を持って行ったのもきっとお腹が空いてたからだと思う」
「それなら対策ができるか少し考えよう。場所も教えてくれるかい」
子供は慌てて自室に戻りペンと紙を持ってきた。待ちきれなかったのかそれとも人が集まっていることに興味を持ったのだろう。他の乗客も来てしまった。
行ってみたいという好奇心に負けたもの、それどころじゃないだろうと怒る者それぞれいた。しかし、食料が尽きてしまうという事。そしてつまらない船旅に飽きた者の方が多かったため大勢がその森に行く事となった。
「遠足ではないんだぞ」
呟くティオグにユルは「皆がいて心強いな」と陽気に答え、その父親はティオグの意見に賛同した。
「ここから近いんだよ」と、子供はどこか興奮した様子で乗客たちに話しかける。「おじさんたちは英雄なの?」
そう問いかける少年に乗客たちはさらに気分がよくなり、数人は頷いても見せてしまった。
「女子供を連れて行かれたんだ」と、怒りに顔を歪めながら住人の一人が言う。
「死体は見つかったか?」
後ろで聞いてた乗客の言葉に住人たちは悲しげに、あるいは悔しそうに首を横に振った。
4
ティオグ、リュカそして数人の若い傭兵たち。その後ろには暇を持て余した乗客と志願した住人が数人ついてくる。住人は剣、矢それぞれ武器を持つが桑や鋤などを持つ者も見受けられた。
「ティオグ、といったな。出来れば俺たちだけでどうにかしたい。こんなに一般人がいては足手まといになる」
「俺も護衛だ。依頼主に怪我をされたら困る」
ティオグが言うとニドはやはり緊張したまま頷き、息子とその友人たちを見た。
「アイツらも浮かれてはいるが傭兵だ」
「実際の経験はあるのか?」
ティオグの問いかけにニドは視線を少し下へ落とす。
「……まだだ」
林に入り、森に入る。
森は静まり返り、鳥や虫さえ息を潜めて見えない何かに怯えてやりすごそうとしている。住人の一人が飼い犬を連れてきたのだろう。黒い犬が突然尾を巻いて悲しげに一声鳴いた。
「近いのか?」
犬の飼い主はどこか怯えたような、興奮した声で言った。犬は弱々しげに鳴きながら、しかし軽い足取りで一直線に森を駆けた。
犬を追いかけてみると、そこには”何か”が寝転がっていた。
「子供だ!」
数人は慌てて駆け寄り倒れている子供を見た。
病人のような白い肌、両頬にはミミズ腫れが二本づつ伸びている。誰かに打たれたのか片側の頬には青い痣がくっきり浮かんでいた。
背中がガラリと見える黒いワンピースを着ている。白いニットも同様に背中に布地がなく、首に巻かれた長いリボンの端が背中を申し訳程度に隠している。が、そこから血が伝っているのが容易に見える。
その悲惨な姿に誰もが心痛めたが、ティオグだけ驚き方が違うのをめざといリュカは見逃さなかった。
「見ない子供だな」
住人の一人が呟いた。たしかにその少年の耳は特徴的な三角をしていて、瞳には金が宿っている。ここの住人とは違う特徴に乗客たちも疑問を持った。
「こ、これが人食い?」
ペオの問いかけに「コイツではない。見ない顔だ」と住人は首を振る。
「ここの子供か?」
少年は黙ったまま首を横に振る。おそらく下手に動いたら何かされると理解しているようだった。弱っているのは、素人目でもすぐに分かる。おそらくその人食いから逃げてきた被害者なのだろう。
「お前を連れた来た者はどんな姿だ? どうやって逃げてきた?」
「家に穴が開いていたんだ。彼は自分にばかり興味があってボクを気にかけなかった」
ニドの問いかけにも少年は弱ってこそいるがしっかりした口調で答えた。ユルが少年の前にしゃがみ手当てしようと手を伸ばすと、彼は反射的に身構えた。
「叩きはしない。治療をするんだ。頬に青痣がある。連れてこられる際に打たれたのか?」
よくある事さと答える少年を一行は哀れに思った。
犬はさらに弱々しく尾を丸めたまま、乗客たちの後ろでしきりに吠えている。少年はそれを嫌がりもせず、ただただ乗客たちを見ていた。
「早くどうにかしないとな」
ティオグの発言に少年は反応を示した。
「キミ達は彼を捕らえに行くのかい? 協力は出来ないけれど、案内だけならしてあげられるよ」
「それは助かる」
ティオグはそう言って少年と握手すると、ぐいとその手を引いて強制的に立たせた。
「俺はティオグ。……お前の名は?」
その少年は、黒いワンピースについた草と土を払った後、人懐っこそうに微笑んだ。
「アルス」
5
少年の案内で一行は歩みを再開した。
「目標は普段どんな人間だった?」
ニドは歩きながら住人に尋ねる。情報収集は大事だが、住人は答えられないようだった。
「昔から変わった奴だった。マンナというんだ。寂しい奴でもあったけれど……何と言えばいいのか。奴の父親は農業中に事故で死んだ。母親は重い持病を抱えていてろくにアイツの相手をしなかった。気を引きたかったのかもしれない。アイツは平気で嘘をつくようになっていたし、成人を過ぎたあたりで『俺はココにいて良い存在ではない』とよく言っていた。俺たちのことを『手に豆しか作らない』と莫迦にもしていた。だから、俺たちは相手にしなかった。アイツは誰かを見かけるたびに食ってかかっていたからな」
住人はそう言って溜息をついた。
「母親の持病は遺伝性のものだった。アイツも病気を発症して、森に逃げ込みそこで研究をし出した。草木を自由に扱える者であるから『魔法使』と自称し『森に近寄ったら呪詛で殺す』と脅した。勿論、俺たちは相手にしなかった。近寄る気なんて最初からなかった」
「一人の人間がどうして住人を何人も連れていけるんだ?」
「よく家出をする連中や不良だったんだ」
「迷うように仕掛けがある」
不意にそう言ったのはリュカだった。皆の視線が一斉に彼女の元へいったので、彼女はひどく怯えながら震える手で一本の木を指差した。
「枝に赤いリボンがあるでしょ」
「人は無意識にでも自分の居場所を掴もうと記憶する。あちらにも赤いリボンがあった」
ティオグがフォローに回ると後ろから納得するような唸り声が聞こえた。
「坊主、ちゃんと案内できるのか?」
シゲルの問いかけに、先頭を歩くアルスは何も答えず近くの木を見る。そうしてから、自身の腰の高さに指をさした。そこには一本の深い切れ込みがある。
「ああ、それなら心配込むようさ。家を出てからずっと傷をつけてきたんだ」
他の乗客は賢いと褒めてはいたが、ニドとティオグは疑問に思って少年を見た。
少年は両肩を出すような羽飾りのついた黒いワンピースと、白いニットを着ているだけで、木に深い傷をつけられるような物を所持していない。
「お前の他に捕まってる人達はいたか?」
「あぁ、それなのだけれどね。ボクはすぐに逃げたから他の人がいるかなんて思いもしていなかった」
ニドの問いかけにアルスはそう答えた後、ふと足を止めた。後方にいる黒い犬はキャンキャンと哀れに鳴いて一目散に逃げてしまった。
「動かない方がいい」
けれど、アルスの忠告は一歩遅れた。
ユルたちの仲間が一人足を地面に置いた瞬間、何かがカチリと鳴った。
「危ない!」
ユルが言い終わる前にシゲルが友人を突き飛ばす。友人は転げて助かったが、シゲルは膝をついて呻いた。彼の肩から薄く血が溢れている。
「罠か?」と、問いかけるニドにシゲルは頷きながら掠めた矢を睨む。威力がなかったのか、それとも仕掛けがちゃんと機能していなかったのか、矢尻錆びつくそれが刺さることはなかった。
落ちた矢を見つめていたユルがギョッとしてシゲルの肩を見る。
「一度、戻るか?」
ティオグは自身の服の裾を破き、手早くシゲルの腕を止血しようとする。その前にユルが動いた。
「莫迦言え。此処で戻ったら時間が……おい、ユル。みっともないことはよせ」
不意にシゲルがそう叫んだ。ユルはシゲルの肩に口をつけ、血と吸っては吐き出している。
ニドは無言でユルの頭を一度打ち、自分の元へ引き寄せた。その様子を恨めしそうにシゲルが見ているのをリュカは気が付いていた。
ティオグは素早くシゲルの肩を止血する。彼はとても嫌そうにしながらティオグが簡易治療をするのをおとなしく受けていた。
「どうせ、その魔法使とやらの家にいけば薬品なんて沢山あるだろう」
シゲルは謝る友人たちに「気にするな」とぶっきらぼうに答えて立ち上がった。他の乗客は周辺にあった仕掛けの場所の特定を済ませ、今は安全な道を確保している。
6
抜け道というのは家のすぐ裏にある小さな穴のことらしい。
「此処に入ると、使われていない書庫につくよ。地下と二階があるけれど、大抵彼はリビングにいるね」
アルスはそう言って一度大きく深呼吸をした。体調が優れないのか、それとも恐怖からなのか顔色は一層悪くなっていく。
ユルはそんなアルスの頭を撫でた。彼の後では乗客と住人が順々に家に侵入していっている。
「坊主、ここで待ってろ。すぐに戻ってくる」
ペオが勇敢にもそう言うと、アルスはにっこりと笑って彼の裾を引っ張った。
「ボクはキミ達をここまで案内してあげた。だから一つ、ボクのために働いておくれ」
突然の頼みにペオは驚き、近くにいたティオグが振り返った。
「なあに、難しい話じゃない。地下に転がっている木製の指輪を燃やすのさ。多分、部屋の中央に置かれている筈だから探す時間はそうはかからない。火種が無いならば、その指輪を指にはめて「満足した」とだけ言えばいい」
「それはどうしてだ?」
「ボクにとってそれはとても不快な物でね」
「お前に渡さなくていいのか?」
聞き耳を立てていたティオグが尋ねるが、アルスはやはり笑みを崩さなかった。
「いらないよ。壊してくれればそれで充分さ」
その即答は確固たる意志を持っていた。ティオグは頷いたあと、今にも家に入りそうなリュカを見た。
「お前は此処に残っていろ」
「どうして⁈ せっかく魔法を見れるのに……」
「何が起こるかわからない」
「一人にされた方がもっと怖い!」
「この少年と……」
と、ティオグはアルスを見たが、すぐに考えを改めた。思い出すのは数ヶ月前にことだ。
「俺から離れるんじゃないぞ。調べる時間もない。他の人間に魔法使いだと知らされるのも避けたい」
リュカは悲しげに頷き、二人は家の中に侵入した。
7
入った場所は本と埃で溢れていた。
「くしゃみをして居場所がばれるなんて事だけは避けてくれよ」
と、ユルが言うのを真面目なシゲルがイライラしながら睨みつけている。
「本当に大丈夫なのか?」
心配そうに言うティオグをシゲルはキッと睨みつけた。
「信じられないのか? 俺は傭兵になるためにこの船に乗ったんだ。経験だって勘だって養ってきた。お前と違ってちょっとの痛みでギャンギャン騒ぐ奴じゃない」
強い拒否を見せつけられたティオグも面白くなかったのだろう。それでも「それならいいんだ」と答えて家の中を散策した。
静かに、息を殺して歩いていると荒い呼吸が聞こえた。
先頭を歩くユルが「いるぞ」と後ろにジェスチャーで伝える。
本来、彼らの仕事は守るものを脅威に近寄らないようにするためのものだ。しかし、今回はまるで違う。それぞれ剣を抜き突撃のタイミングを図る。
対象が動いたと同時にユルが合図した。
そこに寝転んでいたのは人であっただろう”何か”だった。
髪は抜け、目は窪み、風呂に入っていないせいか垢で汚れている。食事をとっていないのか腕や足は骨と皮だけで、それでも下腹部はぽっこりと膨らんでいた。腰にだけまいた布は頼りなく、それも同様にひどく汚れていた。
乗客たちと住人は彼を囲んだ。
本当は捕らえるだけでよかったのだが、住人には相当恨みがあったのだろう。人を殺したことのない彼らは容赦無く彼を殴り、もしくは斬りつけた。
それに影響されたのか、それともこの異形を見、恐怖に支配されてしまったのだろう。ついてきた乗客もその生物を殴りつけた。
ティオグはすぐさまリュカをその場から離した。
「見るな、聞くな、何も知らなくていい」
後ろから大きな手で耳を抑えられ、リュカは動くことも許されない。だが、少しだけ見てしまった光景に彼女の心は酷く揺れた。
それだけではない。何か、黒い煙が壁の隙間から伸び、彼女の頬を撫でた。それがさらに彼女の感覚を鋭利にさせ、部屋に籠った悪臭に、人々の声に気分を害する。
「あ……あ……」
リュカは小さく声を漏らしながら涙を、漏れ出す声を堪えようとしている。部屋に置かれたランプが揺れる。本が勝手に開き、ぱらぱらとページがめくれる。
ティオグの背には冷たい風が走る。嫌な予感というものはあたる。ランプに照らされた部屋に黒い手がいくつも伸びている。それは影のように見えるが実体はあるらしい。積まれた本を無造作に、それこそ怒りに満ちた動きで叩き落とし始めた。
その音に驚いたのは乗客と住人だ。彼らはこの奇怪な現象をこの生物が起こしたものだと思い込み、さらに叩く手を強めた。
ティオグはリュカの名前を何度も呼びながら、彼女の前に回り込み両肩を掴み揺さぶった。
「リュカ。俺の目を見ろ。ゆっくり息を吸うんだ」
リュカは浅く呼吸を繰り返している。声が届かないのか、大きく開かれた目からは涙がこぼれ落ちる。
一方。やりすぎた殺し。とでもいえばいいだろうか。過度な暴力を止めたのは場慣れしているらしいニドだった。
原型さえなくなってしまうのかと思うほど、遺体の損傷は凄まじいものだった。パニックとはいえここまで行う彼らにニドは畏怖を抱きながらも、肩で息をし興奮冷めやらぬ彼らを説得し、対象の首だけを刎ねた。
手際よく麻袋にしまいこみ、改めて”ヒトだったモノ”が何をしたかったのか痕跡を辿ることにした。
「話によると人を攫ったようだが……」
そう呟きながら周囲を見ると「あったぞ!」とすぐに返事がある。
腐った果物に、腐乱した肉。ビンにつっこまれた肉片、剥き出しの骨。それらは大量の小蝿の下で小さな山を作っている。後方で数人かが嘔吐したのがわかる。
「生きている者は……いたらいいのだが」
現状を見る限り、それは希望的観測に過ぎない。
8
「リュカ。いい子だから、こっちを見るんだ」
ティオグは優しく彼女の頬を撫で、涙を拭う。幼い兄弟たちにやってきたような慰め方だ。しだいに彼女は落ち着きを取り戻し始めた。
「一度、此処から出よう」
しかし、彼女は首を横に振った。流石のティオグもそれに肯定はできず、彼女の手を掴んだ。
「リュカ。約束と違う」
「違う……。見て」
彼女は涙を拭いながらそう言って、小さな扉を指さした。先程の怪奇現象で本が落ち、見つけることができたのだろう。その先には地下へ続く階段がある。
「分かったよ、リュカ。だけれど、地下は他の人間に任せて俺たちは外に出よう」
「煙があるの」
ティオグはギョッとしてリュカを見た。彼女は何もない所を指さしてどこか虚ろげに言っている。
「リュカ、よそう。危険だ」
リュカはどこか上の空で「いや」と答える。
「ずっと匂いがしてたの。甘い匂いがする。下に行きたい」
「駄目だ」
「お願い、ティオグ」
「そのお願いを聞いた結果、お前は案の定魔法を発動させた」
ティオグの言葉にリュカは再び目に涙を浮かべた。だが、彼女が言うよりも先に数人がこちらに気が付いたらしい。そして地下へ続く道を発見したと歓喜し、衝動のままにおりて行った。
「ティオグ」
「お前は何も知らなくていい」
そう言い捨てるとリュカは自身の唇を強く噛み締めた。
「そこまで気になるなら俺だけが行く。それでいいだろう」
リュカは涙を零しながら頷いた。ティオグは彼女をユルに預け、地下へ進んだ。
甘い匂いとリュカは言っていたが、地下は腐乱臭で溢れていた。それでもアルスの言った通り、汚れた地下の床には白いチョークで奇妙な図式が描かれている。
「何だこれ」
「何かを呼ぶ儀式だろうな」
ティオグはそう言いながら天井に描かれた星空に似た図形を見る。半年前に起きた嫌な記憶が呼び起こされる。クレアが”落とし子”を呼んだであろう部屋に酷似している。
その図式の中央でペオがしゃがみ何かを拾った。
「無闇に拾うな。呪具だったら面倒なことになるぞ」
ティオグにそう言われ、ペオは慌てて「わかったよ!」と答えて何かを捨てる動作をした後、両手をすぐさまポケットに入れた。
「これ以上触れない」という彼なりのジェスチャーらしい。
「ここで指輪を捨てろと言うのだから、あの子供は……」
「普通ではないな。アルスとか言ったか……。たしかクレアが探していたのもアルスと言っていたが」
半年前のことを思い出しても、記憶に残るのはあの”落とし子”と呼称されたバケモノしか出て来ない。よほど恐怖だったのか、それとも自身もどこか気が触れてしまったのか。そう思うだけで背筋に冷たいものが走った。
「ゆ、指輪は見つからない」
ペオの言葉通り、地下にこれと言ったような物はなかった。
探す時間もどれが重要なのかもこの地下にいる者達は魔法とは無縁の世界にいるためわからない。
「指輪なんか最初からなかったんだろう。もしかしたらここに長いさせる目的なのかもしれない。早く出よう」
すっかり雰囲気に飲まれてしまったらしいペオはそう言うとそそくさと地下から出た。
9
「ティオグに何か言われたのか? でも元気だせよ。俺もよく失敗するしな。さっきのも見ただろう? 皆の前でゲンコツだぜ」
ユルに慰められてリュカはようやく泣くのをやめた。素直に感謝を述べればユルは嬉しそうに微笑んで「よかった」と声をあげる。
「ユル!」
父親であるニドに呼ばれてユルの表情は一瞬にして強ばった。二人はニドが待つ二階へ駆け上がった。
二階は母親の祭壇になっていた。
母親の肖像画に棺。一階とは違いしっかり掃除をされていた事からここが彼にとっての神聖な場だと理解ができた。それ以外は何もない。
ただ日記が置かれていて、母親の病気や自身の病気に酷く嘆いていた事、治療薬が見つからないと憤りを覚えていた事が記載されていた。
数日間のページは空白だったが、それでも数ページめくると再び書き込まれた形跡があった。
悪魔との取引という子供じみた文章から書かれた日記は支離滅裂だった。
ある日、神の啓司の如く悪魔を呼ぶ為の陣が頭に浮かんだ。地下に行ってそれを書けば、一匹の小さな悪魔がやってきた。恐怖のあまり失禁をし、陣の一箇所を歪ませてしまったがそれでも悪魔を体に宿す事は出来た。
知識の根は脳に体に伸び、閃きは次々と生まれてくる。けれど、その閃きのせいで心が安らぐことはない。それはいつの間にか発作のような苦しいものに変わった。自分の意識も途中で途切れてしまう。
自信を形成する要素が人の成分より悪魔の成分が多くなってしまったのならば、人を体に取り込まないといけない。
支離滅裂な文書はそれでも今回彼が引き起こした理由を語るに十分だった。
数人の生贄の元、今度はもう少し力の強い者を呼びたい。
懇願するような文字。そして次のページには、もう文字ではない蛇が暴れたような線だけが続いていた。
「魔法使いというのはあながち間違いでもないかもしれないな」
文盲のティオグの為に音読したニドの話を聞いて二階にいた全員は戦慄した。
首のない遺体は誰かが埋めたのか、それとも外へと引きずり出したのか、その姿はもうどこにもなかった。
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恐怖に震えながらも一行は街に戻った。
離れた小屋には捕らえられた女子供の姿があり、家族との再会に彼らは涙した。その姿を見れば、恐怖に震え上がった者たちもすっかり持ち直し、まるで自分の事のように喜び合っている。
「そういえば、アルスは?」
家族の再会を見ていたペオは恐々ティオグに尋ねる。ティオグはそこで初めてあの少年がいないことに気がついた。
「分からない。彼は指輪を燃やせと言っていたが、どうも怪しい。魔法陣が描かれていた。何かを喚んだ跡に違いない」
「この時代に魔法ね……。どうしてそう思う?」
「俺は一度見た事がある」
「じゃあアルスがいないのは指輪が消滅し、消えたという事か?」
「それは希望的観測に過ぎない」
ティオグがそう言うとペオは溜息をついた。
「……甘い香りがする」
リュカが呟いたのを聞き、ティオグは彼女を見た。
「まだするのか?」
ティオグがそう問いかけると、大袈裟とも思える具合でリュカが体を震わせた。彼に聞かせるつもりはなかったらしい。怯えた瞳を彼に向け、頷いた。
「きつく言い過ぎたんじゃないのか?」
リュカが食料の運搬を手伝うのを見ながらユルがティオグの脇腹を突いて尋ねた。
「大事な護衛対象なんだろう? 泣かせるだなんてさ。嫌われたら大変だろ?」
「構わない」
ティオグはリュカから目を離さずに答えた。
「これは仕事だ。好かれようが嫌われようが構わない」
それを聞いたユルがあからさまに肩をすくめて大袈裟に溜息をついた。
「俺の親父とそっくり。だから母ちゃんに出ていかれちゃったんだ」