さまよう踊り子
この話は18世紀末のスペインから始まります。
アンダルシア地方の小さな村にサルバドールという貧しい絵描きが一人で暮らしていました。
夕暮れに村はずれを歩くサルバドールは、今日も朝から絵を抱え街に出て広場にたたずみ、描いた絵を買ってもらおうと人々に声をかけ続けたのですが1枚も売れずに暗い思いで帰路につく途中でした。
ふと気付くと森の中の一軒の家の窓から明かりが漏れ、歌声が聞こえます。そっと近寄って覗き込むと若い娘が歌いながら一心に踊っている姿が見えました。サルバドールは美しい娘の踊りに一目で心を奪われてしまいました。
どうしても美しい娘を描きたいと思ったサルバドールは何日かして思い切って娘の家のドアを叩きました。そっとドアを少し開け彼を見つめる娘に「あなたの美しい踊りに魅了されてしまいました。私は名もない絵描きですが、どうしてもあなたの舞う姿を描かせて頂きたい。」と 真剣なまなざしで懇願しました。娘は少し躊躇して、恥じらいながらも男を家に招き入れ「どうぞ こんな私の拙い踊りでよろしければ好きなだけご覧頂き、描いてくださいな。」と頬を薄く染めながらも頷きました。
後ろで二人の話を聞いていた女が彼に椅子を勧め「今、温かいお茶を用意しますから少しお待ちくださいな。私の娘が喜ぶなら私も嬉しい、どうぞゆっくりなさってください」と台所に向かった。
サルバドールは自分が近くに住む売れない絵描きであること、両親は先の戦争で戦火に見舞われ他界して一人暮らしであること、子供の時に見たベラスケス (バロック期の画家) の絵画に感動し、ずっと絵を描き続けていることなどを夢中で語り、あなたの踊りに感銘を受けたので描かせてもらえればきっと良い作品にできる、と熱く語りました。
娘はマリアと名乗り、母親と二人で暮らしていること、父親は数年前に流行病にかかり何日もせずにそのまま息をひきとったこと、母親は近所の農家の手伝いをしてわずかな報酬と農作物を貰って暮らしをしていること、マリアは街で踊りの稽古を受け まれに舞台に立たせてもらい少しばかりの賃金を得ていることなどを話しました。
稽古の最中で良ければ好きなだけここに来て、描いてもらって構わないと承諾してくれたマリアと母親に礼を言ってサルバドールは足取りも軽く家路に着きました。
何日かしてキャンバスとイーゼルを抱えてマリアの家に向かったサルバドールは木炭でデッサンから始め、数日おきに踊るマリアを描き続けました。
ひと月もすると彩色されたマリアがキャンバスに浮かび上がってきました。
そんな頃、街に絵を売りに出かけたサルバドールは街の若者たちの噂話を耳にしました。
マリアという踊り子が舞台に立つところを見た街の権力者が一目で気に入り、私の屋敷に侍女(実際は妾)として住み込むなら私が母親の生活のすべての面倒をみる。おまえにはもっと良い踊りの師範をつけ、一流の舞台の中央に立てるように口利きをしよう。とマリアを誘惑した。母親想いのマリアはその提案をうけ近々彼の屋敷に移り住むことになった。
若者たちはそんな話をしていたのでした。
驚いたサルバドールは急いで村に戻りました。マリアの家の前にたどり着きましたが、怖くて怖くて玄関のドアをノックすることが出来ません。マリアに街の噂話が真実かどうか、私のことをどう想っているのか問いただしてみたいのですが、どうしてもドアを叩けません。近くの茂みの奥にある切り株に腰を下ろし思案に暮れる。やがてあたりは日が暮れるがそれでもサルバドールは動けない。月明かりのない夜だったのであたりは濃い闇に包まれていきます。
そんな時、マリアの家の窓に明かりが灯り やがて歌声と床を打つマリアの靴音が聞こえてきました。サルバドールは考えた。今なら裏の勝手口に回り込み、母親に真相を聞くことができる。思い切って絵を抱え腰を上げ家の裏手に向かいました。
はやる思いのサルバドールは暗い足元の小石につまずき、抱えた絵を落としそうになります。
慌てて掴み直そうとするがかえってバランスを失ってしまいます。
あっ という間もなく深い谷底に頭から落ちていきました。
数日してマリアはサルバドールが現れないことを不信に思い出した。どうしたのかしら、「そろそろ描き上がるから、私の前でもう一度踊って欲しい」と言っていたのに。
マリアは心配になりサルバドールの家に向かいました。夕暮れ時でしたが、薄明かりの中で窓越しにマリアの踊る姿が描かれたキャンバスがイーゼルに乗っているのが見えました。しかしサルバドールが家の中にいる様子は窺えませんでした。
マリアは絵が完成したら自分のつのる想いをサルバドールに打ち明けるつもりでいました。権力者から受けた誘いの話も伝え、はっきり断ったことも話すつもりでいました。だが、サルバドールに会えないならば揺れる想いを伝えられません。
翌日、村の人々に彼の消息を尋ねて回ったが誰も知る者はいませんでした。何日かして街へ足を運び広場の若者たちにも訪ね回ったが手がかりを見つけることはできませんでした。
それからまた数日過ぎたある晩、ベッドで眠るマリアはサルバドールが「マリアー」と振り絞るような声で叫んだような気がしました。この日も月明かりのない夜でしたが飛び起きて上着を羽織ると声が聞こえてきた裏口から表に飛び出しました。
朝から降っていた雨は上がっていましたが足元はぬかるんでいました。夢中で辺りを見回すマリアは足を滑らせ、そのまま深い谷底に落ちていきました。奇しくもそこは先日サルバドールが足を踏み外した場所でした。
何百年かの歳月が過ぎ 踊り子の絵は人から人へ、画商から収集家へ、またオークションから新しい収集家の応接室へと場所を変え 今は日本国内の個人のアトリエにあります。
この絵には今でも時折不思議な事が起こると言われています。月明かりの無い深夜に踊り子が額を抜け出してサルバドールを探し求めてさまよい歩くというのです。
額の中には蒼く暗い背景だけが残る。