8.〈叫ぶ歓喜〉
〈肉塊〉の肉体が、〈高き者〉を捕食していた部分から爆発四散した。
〈肉塊〉も異常事態を察知したのか、爆ぜた次の瞬間には後退していた。
歓喜の叫びと共に膨張する身体。
〈肉塊〉に捕食され、半分以上は欠損していた脚部が爆発的に再生し、再生以上に粒々と容積を増やし続ける。
そうして再生された〈肉塊〉の姿は、怪物を超えて怪物的であった。
単純に体積だけを見ても再生前を優に超え、〈肉塊〉の欠損を加味しても、〈肉塊〉と比べて身体半分以上は全長に差をつけている。
また、その身体を形成する肉はよりどす黒く変色している。単純に生肉的であった肉は見違える程に隆起し、まさに怒張し露出した筋肉と化していた。肉体のところどころから、噴水のように黒い液体をまき散らしている。まるで重油のように濃厚なそれは紛れもなく生物の血液であり、並々ならぬ血流が血管を千切っては吹き出し、吹き出しては再生し、再生してはまた吹き出し――そんな暴力的な循環を繰り返していた。
その姿はまさしく、敵対する者への怒り――絶対的な「死」を告げているようだった。
それでも〈肉塊〉は戦意を喪失していないようだ。〈肉塊〉は即座に肉体の再生を行う。流石に〈高き者〉のように完全な再生がなされていないが、傷口は修復されていた。
――ズンッ!
重々しく響くそれは、〈高き者〉の前進だ。
〈高き者〉による〈肉塊〉の征服への邁進だ。
〈肉塊〉は全ての触手を放ち、全てが〈高き者〉に突き刺さる。
〈高き者〉はその場に立ち止まる。
しばし、奇妙な停滞がこの場を支配する。
しかし、〈肉塊〉は何もしていなかったわけではない。
〈高き者〉に突き刺さったまま張り詰めた触手を伸ばす〈肉塊〉。
しかし先ほどのように貫通するわけでもなく、蚊が肌を刺す程度の傷しかつけられなかった触手は、〈高き者〉を持ち上げるどころか、一厘足りとも動かすことも出来ず、触手を引き抜くことさえ出来なくなっていた。
よって、これから行われるのは〈高き者〉の「蹂躙」に他ならない。
まず、自らに刺さった触手をまとめて手繰り寄せる。それは、開始前の綱引きの綱をそうするように呆気なくなされ、〈肉塊〉の抵抗など無きに等しいものでしかなかった。
〈高き者〉は叫ぶ。
同時に、掴んでいた触手を背負い込み、そのままアスファルトへと叩きつけた。
地球を穿つ、どころか地球を貫かんがばかりの破滅の音。
その一撃で、〈肉塊〉の半身はアスファルトの中に陥没してしまった。
身動きがとれなくなった〈肉塊〉の触手を、〈高き者〉は思いきり引っ張る。ただでさえ隆起している肉はますます緊張を高め、噴出する血液の量と頻度が増す。ミキッ! メリッ! と、時折、鉄が裂けるような音がした。
〈高き者〉が、全身をよじらせて大いに叫ぶ。
瞬間、五本の触手、全てが千切られた。
〈肉塊〉はアスファルトの中で暴れ回る。
断末魔をあげる〈肉塊と〉、歓喜の叫びをあげる〈高き者〉。
緊張から解き放たれたように暴れまわる触手を手に持ち、触手の切り口から噴出する腐った血を全身に浴びながら、全身全霊をもってして、その勝利を誇示する。
しかしもちろん、戦いは終わっていない。
叫び終えた〈高き者〉は、埋まる〈肉塊〉を持ち上げた。ドゴゴッ、と地響きのような重たい音とは裏腹に、土から野菜を引き抜く程度に軽々しい動作であった。
むしろ、〈高き者〉の背中で鳴る、煮え立つような音の方がよほど重々しかった。
そして〈高き者〉は〈肉塊〉を空高く放り投げる。空高く舞った〈肉塊〉の巨体で、太陽の光が遮られる。
〈肉塊〉の身体が頂点に達した瞬間、〈高き者〉は叫びと共に大きく胸を反らす。
それと同時に、背中からバネのような勢いで八本の触手が伸びる。まるで翼のよに生えたそれは、〈高き者〉の全身同様にどす黒く、その身は刀のように鋭かった。
薙いだり刺したり巻き付いたりと多様性を感じさせた〈肉塊〉の触手に対して、〈高き者〉の触手の機能性は、明らかに斬撃に特化していた。
頂点に達し、加速度的に始まる自然落下。
〈肉塊〉の身体が半ばまで落ちたところで、〈高き者〉は高く跳んだ。
八本の触手の全てを、放たれる直前の弓のようにしならせ、巨体に似合わぬ俊敏さをもってして、瞬く間に落下する〈肉塊〉に迫る。
そして触手が放たれて――その次の瞬間には全てが終わっていた。
頭部を割り、腕を絶ち、脚を払い、腹を裂き、背中を薙ぎ――〈高き者〉の刃は、瞬刻の間に、〈肉塊〉を破壊し尽くした。
〈肉塊〉が潰れるような音を立てて地に堕ち、〈高き者〉が揺るがす音を響かせて着地する。
〈肉塊〉は最早、ズタボロの肉片だった。にも関わらず、それは未だに生命活動を終えていなかった。
どこからともなく、火花が弾ける音が鳴る。
弾ける音はみるみる高まり、それと共に、空間に一個の穴が穿たれた。穴は音の高まりと共に勢いよく拡張する。その穴の中は、下手な虚無よりも絶望の密度が濃い漆黒だった。
絶望が、横たわる〈肉塊〉の傍らに浮かぶ。
そしてその漆黒の穴から、雪崩のような肉が溢れ出た。〈肉塊〉は瞬く間にその肉へと飲み込まれ、そのまま穴の中に引きずり込まれた。〈肉塊〉が漆黒へと消えると、例の火花の音を鳴らしながら穴が縮小していく。
穴が完全に閉じられた瞬間、パァンッ! と辺り一体に閃光が弾け、〈高き者〉に向かって爆風が襲い掛かる。
光と風、熱に晒された〈高き者〉は、呆気なく吹き飛んだ。その身は、もはやどす黒い偉容を保ってはおらず、当初の臙脂色の肉体に戻りつつあった。
それでもなお〈高き者〉――〈叫ぶ歓喜〉は、その咆哮を力強く轟かせた。
本懐を遂げた歓喜を、この世界そのものに示威するかのように。
※
――アスファルトが、異様に冷たい。
どういうわけか仰向けになって倒れていた俺は、そんなことを思った。
視界が霞み、身体が重い。外傷もなく、体調に異常をきたしてはいないのに、ただただ、意識が深いところに沈んでいきそうな気分。
やがて、アスファルトが冷たいのではなく、身体が異常に火照っていることに気がついた。
喉は乾き、全身が汗ばみ、内側から激しく熱せられている。まるで、精根尽き果てるまで身体を使い切った後の状態だった。
しかし、こうなる前に、俺が一体どうしていたのかをまるで思い出せない。
なんだかとても、真っ暗なところにいたような気はする。
真っ暗なところで、ずっと揺蕩っていたような――でも、じゃあ、その前は? そもそも俺は、学校を早退していたんじゃないのか?
そしてなにより――重たい意識の奥底で熱を持つ、途方もない満足感は、なんだ?
ぼんやりとした混乱の中にいる俺の目の前に、手が差し伸べられたのはその時だった。
真っ白く、小さな手。
ゆっくりと首をあげると、そこには一人の少女がいた。
銀色の髪に、白い肌。そしてその顔に、爛れたような傷。
まるで焼かれた宗教画のように醜いはずだった。しかし、純白の手を差し出す少女の微笑みに、俺は息を飲まずにはいられなかった。
目の前に、運命の女神が現れて、まさにその祝福を受けているかのように――
「狹間田遊里――死にたがりの、いけない、いけない、〈高き者〉」
そして少女は俺の名を呼んだ。
ただそれだけのことで、俺の全身は至上の多幸感に満ち満ちた。
涙が、出そうになる。
はち切れそうなほどの昂ぶりを抑え、俺は少女の手を取った。
そして顔をあげた俺はその光景を見た。
人が絶え、尽くが廃墟と化したビル群、穿たれたコンクリートの地面。
まるで、終末の世界にいるようで。
その世界の中心で、銀髪の、顔に爛れた傷を持つ少女が、まるで天使のように微笑んだ。
「さあ――いっぱい、いっぱい遊びましょ?」
俺は、自分でも気づかないうちに涙を流していた。