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臙脂色の謝肉祭(ファスナハト)  作者: 空箱零士
1.爛れた傷の銀髪少女、屍肉の怪物。
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5.屍肉の怪物

 お姉ちゃんはこう言った。

 自らの本性に背いた者は、例外なく不幸な精神を抱えたままで生涯を終えるのだ、と。


 それは一瞬の出来事だった。

 一瞬過ぎて、その一瞬を全く何一つとして覚えていないくらいだ。

 気がついた時には、我が家の車は潰れていて、俺は全く無傷の状態でアスファルトを横たわっていた。

 ヨロヨロと立ち上がった先にあったもの。

 それは、炎上する固まりと――。

 俺の、父さんと、母さん。

 その二つの「モノ」は、余りにも変わり果てていた。それを人間だったものだと言って、果たしてどれだけの人が信じてくれるだろうか? 信じる前に、いや、信じた瞬間にこそ、それに想起するのはただただ、暴力的な吐き気ではなかろうか?

 それらは、まともに直視するには余りに凄惨な光景だったに違いない。

 しかし、それを前にした俺の気が狂うことはなかった。

 それどころか、その時の俺の表情に浮かんでいたもの、それは――



 せいぜい十分くらいしかない駅への道が、今日という日には異常に遠く思えた。

 一歩一歩歩くたびに目の前が真っ暗になりそうになる。いや、実際になっていたに違いなかった。ふっと数秒、数十秒――下手したら一、二分、記憶が真っ黒い場所に飛んだような実感を覚えたから。

 文字通り、闇へと引きずられそうだった。

 目の前で、子どものイタズラのようにスイッチをつけたり消されたりされてるような実感がある。俺は、スイッチを消された後の風景を何一つ覚えていられない。

 正直、この場に倒れてしまいたかったが、それを堪えて、歩く、歩く、歩く……何故だろう、俺はこの歩みを止めてはいけないような気がした。まるで今この瞬間も、背後から、得体の知れない何かが迫っていて、立ち止まった瞬間に、そいつに捕らわれる気がした。

 その感覚を自覚したからか否か、俺の意識が闇に染まる頻度がますます増える。

 立ちどまってはいけない、

 振り向いてはいけない。

 その瞬間、なにもかもが終わってしまうだろう。そいつに捕まった俺は、きっと凄惨な目にあって んでしまうのだ。屍肉を寄せ集めてごった煮にしたような化物に掴まれ、持ち上げられ、溶かされる――ああとうとう俺の頭はおかしくなってしまったのか、もうスイッチが入ってるんだか入っていないんだかもよく分からないだけど俺が今地獄的ななにかに腰までさながら底なし沼をあてもなく直進してそうなったかのように浸かってしまって抜け出したいのに抜け出せないそんなこと叶いもしないそんな中にいてああ嫌だいやだイヤだイヤダイヤダイヤダ


 ドウシテ――ウソヲツクノ?


 俺の足が止まった。

 あれほど俺を苛んだ倦怠感は嘘のように消えていた。むしろ、健康体以上の気力が湧き、意識も明瞭で、五感が鋭くなり、それが逆に気持ち悪かった。

 我が身のの、ただならぬ豹変。

 俺は狼狽しつつ、周囲を見渡した。

 今、目の前に広がるのは駅周辺の繁華街。

 確かに俺は駅に向かって歩いていたらしい。しかしこの辺りは俺の通学路ではない。むしろ、学校帰りに寄り道する場所だった。現に俺は、ちょうど駅に背中を向けるようにして立っている。振り返った先の駅は、随分遠くにあった。

 目の前で、人々が歩いている。

 テンションの高そうな大学生連中が、買い物帰りのせわしない主婦が、穏やかな微笑みを浮かべた余暇を持て余してる印象の老人が。

 車道では当然車が走っている。

主婦が買い物の足に使うような軽自動車が、社用車と思しきミニバンが。道路横に、業者らしい軽トラックが停車している。

 雑踏が、

 交通音が、

 環境音が、

 パラパラと、

 パラパラと。

 それはまさに、日常生活のリアルだった。


 そんなリアルが、一瞬だけ刻を止めたような気がした。


 その一瞬を経て、辺り一帯の音が止まった。


 屍肉の怪物が何かの冗談のように表れたのは次の瞬間だった。


 それは、まずなによりも肉であり、そして巨大だった。

 生きた肉も死んだ肉も腐った肉もなにもかもひとまとめにして、一〇〇人中九〇人以上が断固として否定するであろうことに目をつむれば人型にも見えなくもない形になるような要領で、無理矢理に山積みにする。

 山積みにする。

 具体的には、首を上に大きく傾けてようやくそれの頭の部分が見えるというほどの巨躯になるほどに、その頭頂部が近くに立つオフィスビルの三階部分を少し越えたところにまで達するほどに。

 それを指さして無邪気に生命と称するにはあまりにバカげた巨体であったし、あまりに無節操に生命力に満ち満ち過ぎていた。こんなものが歩いたり食べたり呼吸をしたりしているのをまともな人間が目撃した日には、立ちどころに気が狂ってしまうに違いない。

 そんな、滑稽なまでに悍ましい生命体が、何の前触れもなく、車道のど真ん中に出現した。大通りの真ん中で、その怪物のギラついた臙脂色の「肉」体が、西に傾き始めている太陽の光に反射し、光沢を放っていた。

 まず響いたのは車の急ブレーキ音だった。

 目の前で一台の車が――不幸にも、肉塊がそびえ立つ方向へと走っていた乗用車が――ブレーキが間に合わずに肉塊に衝突して、グニュ、という不快な音とともに、車体が呑み込まれて屍肉の中に消えた。

 その少し後ろを走っていた軽トラックはブレーキが間に合い、屍肉から五メートル程距離をおいたところで止まる。

 トラックから出てきた運転手の若い兄ちゃんが、ポカンと口を開けて、今しがた乗用車が呑み込まれた方と、怪物の取りあえずは顔と思しき方とで、交互に顔を動かしていた。現に俺がそうであるように、こういう時、瞬時には「逃げる」という判断に至れないのだろうが、それにしてもずいぶんとマヌケめいた姿だった。怪物を挟んだ反対側からクラクションが鳴り響く。状況に対する無意味さはどっちもどっちで、この場の迂闊な弛緩ぶりが伺えた。

 辺りにいる者たちは皆立ち止まり、その屍肉の怪物を見上げた。

 そういう俺自身もまた他人事じゃない。冴え渡る五感と裏腹に、屍肉の怪物を目の当たりにした俺もまた、どうしたらいいのかさっぱり分からなかった。

 さっぱり、分からない。

 不思議なことに、これは思考だった。

 少なくとも、「分からない」ということは分かっている――というロジックに収めることで、俺は意識を逸らしている。

 すなわち、屍肉の怪物を見た時、俺はこれを、「自分が呼び出したもの」だと、はっきりと認識したのだ。

 そして俺は――その「事実」に対して、いいようのない快感を覚えていたのだ。

 ああ、これなのだ、と。

 これが俺の―― なのだと。

 だって、現に、俺の表情は今――


 ――キャアアアアアアアアアアアアアッ!


 裂帛の悲鳴が俺を現実に引き戻した。

 見上げると、屍肉の怪物から生えた巨大な触手が、人間や車を絡めて踊っていた。

 車は断末魔のようにクラクションを鳴らした後、アルミ缶のように潰れた。人間たちも断末魔的な悲鳴をあげ、触手の中に消えた。

 触手。

 そう、あたかも宇宙人やら怪物やらが生やしているような触手だ。

 身体のあちこち(としか言いようがない。この怪物を無理やり人型に見立てたとして、一本は右胸の部分から生えているし、一本はへそから少し斜め左上の部分から生えている。そんな要領で合計五本生えている)から伸びている。宙に漂わせている触手は、いかにも「次なる獲物」を捉えたくてたまらない、といった様子にさえ見える。

 突如出現した謎の巨大生物は、非常に好戦的かつ残虐であった。

 群集たちは悲鳴をあげて逃げ出した。

 しかし俺は、その場を動かない。屍肉の怪物を食い入るように見つめてさえいた。

 逃げなくてはいけないに決まってる。

 このままだと屍肉の怪物が、恐らくは触手を使い、俺のことを惨たらしく殺すのだ。

 しかしあろうことか、俺の足は屍肉の怪物へ進んでいた。その足取りはゆっくりな割にステップを踏むように軽く、俺は――目の前に桃源郷を見出しているように笑っていた。

 このまま進めば、俺は間違いなく殺される。いかに理性がそう叫ぼうとも、俺の歩みは決して止まらない。

 だって、

 これが俺の


 死


 なのだから。

 屍肉の怪物が、周囲の人間に構わず、一直線に俺の方へと進み出る。触手を踊らせながらの、巨大ナメクジのような前進は速く、人間の早歩きより遥かに速い。

 これは、俺が呼び出したものなのだ。

 肉塊との距離が三メートルほどまで縮み、俺はそこで立ち止まる。いつの間に俺は両手を広げていた。

 瞬きほどの間をおいて、鋭く風を切り裂いた触手が俺を貫いた。肋骨の下の部分。いわゆる、みぞおち。

 俺は口から血を吹き出し、身悶えるほどの激痛に襲われた。

 叫び声をあげようにも腹の底から焼けた鉄のように熱い血が込み上げてくるし、その場に倒れて悶えようにも俺を貫く触手がそれを許さない。

 俺の腹部に空いた巨大な穴から終末的な痛みが走り、見開かれた目から視界が失われていく。視界が、絶望的な黒に支配されていく。

 ああ、イヤだ、イヤだ……。

 完全に意識が喪われる瞬間。

 俺の脳裏から吐き出された思考は、そんな、嘘つきの思考だった。


 ――今日は。


 ――彼が死ぬのに、うってつけの日です。


 完全に意識が喪われる瞬間。

 俺の耳朶に触れたのは、鈴の音のような少女の声だった。


 こうして、俺は。


 狹間田遊里は、死んだ。

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