4.「どうして唐揚げを食べないの?」/「彼が死ぬのに、うってつけの日です」
お姉ちゃんはこう言った。
もし食べ物になってくれる何者かが存在しなければ、私たちはとっくにお陀仏よ、と。
お姉ちゃんは、食べ物に敬意を払う人だ。
つまり、好き嫌いを許さない人だ。
そんなわけで俺は弁当を食べる。ガツガツと食べる。何やら、草薙と水木が奇妙なものを見るような眼で眼でこちらを見てくるが、お姉ちゃんの作ってくれたお弁当が美味すぎてどうでもいい。
海苔を二重にひき、真ん中に梅干しを置いた日の丸のり弁に、卵焼き、ほうれん草のお浸し、竹輪の磯辺揚げ。かつては苦手だった梅干しも、お姉ちゃんの猛特訓の甲斐あって、白米もろともガツガツいけるようになった。
「あのう、ユーリさん?」
箸をピタッと止め、犬山に顔を向ける。
「ん? 何だよ? オカズの交換はしてやらんぞ?」
「いや、それはいいんだけど……どうせいつもしてくれないし、何故か」
当たり前だ。お姉ちゃんから賜った貴重な弁当を分け与えるなんてとんでもない。
「で、何だよ? 俺はご飯を食べるのに忙しいんだよ」
「そう、まさにそのことなんだけど、さっきからすごく美味しそうにお弁当を食べてらっしゃるなあって」
「おう、卵焼きは正義だよな」
「うん、そうだよね。卵焼きがお弁当にあると嬉しいのは分かるよ、そりゃあもう、よく存じあげておりますけれども……」
「なんだよ、その煮え切らなさ……あっ! さては犬山、食欲がないんだな! それなら俺がそのエビフライ食べてやるぞ!」
「あっこらっユーリ! それは私がランチにおける感動のフィナーレを飾るために丹精を込めて温存しておいた取っておき――」
「狹間田くん」
有無を言わさぬ一声。
草薙のピリついた声色に、じゃれていた俺と犬山が固まる。
「……なんだってんだよ、ホント。俺がこんな風に食べるの、いつものことだろ?」
少なくとも、お姉ちゃんの作ってくれた食事や弁当はいつもこんな感じに食べている。お姉ちゃんも「若い男の子が食欲旺盛なのは素晴らしいことよ」と言ってくれている。
しかし草薙は固い表情を崩さない。
「……キミ、体調回復してないだろ?」
「ああ、めちゃくちゃ眠いし頭痛いけど?」
なんだそんなことか、という気分で応える。
そう、俺の体調は回復していない。
あれから眠気はますます重たくなり、頭痛も悪化はすれども一向に収まる気配がない。
草薙も、朝の犬山と水木との一件も含めて話は聞いているので、犬山ともども、ずっと俺のことを心配そうに見ていた。
もちろんこちらもただ心配されてるだけでなく、「備えあれば憂いなし。東京ジャングルにおけるサバイバルの鉄則よ」というお姉ちゃんの忠言に従って持ち歩いていた頭痛薬を飲んだりしたのだが、一向に収まる気配を見せない。授業はとても聞いていられる状況ではなく、この時間までずっとダウンしていた。一度、そんな俺の状態を見かねた草薙が、「狹間田くん、厳しいようなら保健室に行ったほうがいいぞ」と声をかけてきたが、俺は苦笑しつ「悪い、大丈夫だから」と退けた。
しかしそのことと、お姉ちゃんが作ってくれたお弁当をラベルことに、一体どんな関係があるのだろう?
「えっとね、ユーリ」
と、犬山が恐る恐ると言った風に口を開く。
「確かに、食欲があるのはいいことだよ? いいことなんだけど、流石に、そんな粘土色を地でいくような顔色と、いまにもぶっ倒れてもおかしくない感じに眼がトロンとした人が、そんな人間火力発電所ばりのペースでご飯食べてたら、ちょっとヤバくね? って心配になってくるわけですよ」
「いや、そんなこと言われても、弁当美味しいし……」
「ユーリ、味の話じゃなくて、そんな体調でドカ食いしたら、最悪後で吐くかもしれないよって話なんだけど」
「確かに俺は体調悪いけど、それと美味しいものを美味しく食べるのとは全く別だろ?」
「普通はそんな体調で美味しくなんて食べられないって話をしてるんですけど!」
「美味しく食べてんだろうが! エビフライ食べるぞ!」
「ユーリお願いだから会話をしてよ!」
「普段のお前のよりゃ会話してるわ!」
「ゾンビ顔でお弁当がっついてる人間にそんなこと言われたくないもんねーだ!」
「狹間田くん、犬山さん」
見かねた草薙が口を挟んでくる。
草薙の、半ば呆れたような表情に、俺と犬山はお互いバツが悪そうに顔を向き合わせた。
「ごめんね、エビフライあげる」
「いいよ、別に。オカズ分けてやれねーし」
「たまにはいいじゃん」
「だが断る」
「ユーリのいけず、意気地なし」
お姉ちゃんの作る料理は全て食べるという鉄の掟を持つ身として、この一線は譲れない。
そんなわけで引き続き食事を続ける。といってももう四分の三ほど平らげていたので、後はフィニッシュを決めるだけだ。
「本当に、狹間田くんのその食欲はどこから来るんだろう……?」
「ねー。外でご飯食べてる時とかは平均的男子高校生くらいの食欲とペースなのにねー」
そして最後の玉子焼きを残った海苔ご飯とともにかき込む。塩の利いた玉子焼きと醤油と鰹節の風味が鼻に抜けるご飯を味わって、満腹感を味わう。いやあ、お姉ちゃんの子どもとして生まれてきてよかった。
……あれ、弟か? まあ似たようなものだ。
多幸感とともに、弁当箱をしまおうとした、その時だった。
「ねえ、狹間田くん……」
草薙は心底怪訝そうな表情を浮かべていた。
「どうして唐揚げを食べないの?」
最初、俺は草薙が何か下らない冗談を言っているのかと思った。
「なんだよ。お腹空いて幻覚でも見てんのかよ? なあ犬山?」
「……ユーリ、ひょっとしてそれはギャグで言ってる?」
「え? ……まあそりゃあ、今のは素っ頓狂な草薙の下らないギャグが滑ったってだけ」
「素っ頓狂なのはユーリの認識力だよ!」
犬山の剣幕に思わず口をつぐむ。もはやそれは、突っ込みではなく叱責だった。
「……狹間田くん、もう一度弁当箱を開けてみて。それで、中身をよく見るんだ」
はあ? 何寝言言ってんだよ、草薙? ……なんて言える雰囲気ではなかった。
俺は腑に落ちないまま弁当箱を開けて――
「……嘘だろ」
唐揚げは、あった。
ご飯とオカズとで半々に分ける仕切りの、ちょうど仕切りに接している辺り。
要するに、弁当箱のほとんどど真ん中に、全く手付かずの状態で鎮座していた。
「最初は、それこそ最後まで取っておいてるのかなーって思ったんだけどねー……」
「かといって食欲がないから、っていうわけでもなさそうだった。だからまさか、と思ったんだけど……」
嘆かわしそうに首を振る草薙。
確かに、唐揚げは見えている。そして一度見えてしまえば、確かに食事中にも、視界に唐揚げを捉えていたように思えてくる。
しかし、少しでも目を逸らしただけで、その認識が著しくボヤケてしまうのだ。まるで、唐揚げの存在のものが、意志をもって、俺の認識から逃れようとしている――そのような偏執的な妄想が、脳裏に焼き付くように。
そして何より――お姉ちゃんの作ってくれたお弁当で、そういうことが起こっていることが信じられず、愕然としてしまっていた。
「まあまあ、ユーリ体調悪いし、無理して食べることもないと思うんだけどねー」
「い、いや……」
「ってか、せっかくだし私貰っちゃうよ。たまにはいいでしょ? ね?」
「ばっ! お、俺が食べるって!」
箸をのばしてきた犬山から、俺は慌てて弁当箱を守る。
「本当に、何がそこまでユーリをそうさせるんだか……」
と呆れたように呟く犬山だったが、ここでお姉ちゃんの作ってくれた唐揚げを残すなんて、最早罪業だ。
俺は震える箸で唐揚げを掴もうとする。存在があやふやに見えてしまう唐揚げを、箸で、ましてや震える手で掴もうとする状況に、目眩を禁じ得なかった。結局箸で掴めず、箸で突き刺した。未だ手は小刻みに震えている。
「狹間田くん、キミ……」
草薙がたまりかねたような声をあげたが、俺はそれを無視する。「男の子には、なにがなんでもやり遂げなくてはならない時があるのよ。おちんちんを生やして生まれてくるっていうのは、そういうことなの」とはお姉ちゃん。ああ、お姉ちゃんはいつも正しい。
俺は今にも認識が出来なくなりそうな唐揚げを、今にも箸を取り落としそうな腕を使って、どうにか口元にまで持っていく。
そして、その一口目をかじろうとしたその時、急にグッと右腕を引っ張られた。目の前で、犬山が、いつになく本気で睨んでいた。
「ユーリ、いい加減にして。本当に吐くよ?」
俺はその言葉をちゃんと聞けなかった。
何故なら、俺のすぐ目の前で、箸に刺さった唐揚げが、異様な変容をとげていたから。
一個の固形物であったはずの唐揚げが、グニュグニュとスライム状の生物のようにに変形し、その容積を増していった。
まるでそれは、小さな、肉の怪物だった。
一瞬、肉の怪物の動きが止まる。
そしてその次の瞬間、その怪物が、開いていた俺の口へと殺到し、俺の口内に無理やり入り込んでいった。
「狹間田くん!」
叫ぶと同時に草薙が俺の傍らに駆け寄り、俺の背中に触れる。
気が付くと俺は椅子から崩れ落ち、口元を抑えてその場に屈みこんでいた。
つい先程まで喉元まで来ていた吐き気はもちろんのこと、まるで思い出したかのように一気に膨れ上がっった眠気と頭痛が俺の意識を襲っていた。
「狹間田くん……」
それだけ言って、言葉を失ったように黙りこむ草薙。彼の浮かべる表情には、決定的な絶望感さえ漂っていた。
「ユーリ、スタンダップ……出来る?」
草薙に代わって、犬山が声をかける。
俺はボンヤリとした気分で彼女の顔を見上げる。犬山は笑顔を浮かべていた。それはとてもいい笑顔で、まるでこの状況が全く深刻ではない気がするくらいだった。
「犬山……」
「うん、拒否権はないからね。っていうか、もっと早く言うべきだったし、いっそ朝の時点で帰すべきだったと思ってる。ごめん」
犬山は、俺の腕を彼女自身の肩に回し、半ば無理矢理に立たせた。上がった視線で当たりをボンヤリと見渡すと、クラスメイト達が何事かと伺うような視線を向けていた。
「はーいお騒がせしてみんなごめんねー、今からこのユーリを保健室宛に着払いでお届けするんで、皆さまどーぞ優雅なランチタイムを続けててくださいませー……ってことでヒロブミン、後よろしくね?」
「あ、ああ、それはいいけど……」
それだけ聞くと、「じゃ、行こっか」と、俺を持ち上げた時の体勢のままで俺を支え、教室を出て行った。本当は自分で歩きたかったが、最早そんなことも言ってられるような状態ではなかった。
※
その後、俺の体調は快復することなく、五時間目を丸々保健室で過ごした後、そのまま早退することになった。
一応歩けるようにはなったとは言え、本来なら引率を呼ぶべきなのだが、お姉ちゃんは仕事中だったし、両親は――とっくの昔に、この世の人ではないのだから。
※
五時間目の授業中。
ポカンと口を開いた山口は、後ろを振り返った姿勢のままで固まることとなる。一学年の化学を担当する彼が握るチョークは、Cの字を半ばまで書いたところでピタッと止まっていた。臆病な小市民を絵に描いたような容姿も相まって、どことなくマヌケだった。
しかし、そんな教師を笑う生徒はいない。
何故なら、そんなものよりも遥かに異様な者がいたから。
窓際に位置する席に座る銀髪の女生徒が、唐突に立ちあがったのだ。
それだけではない。その少女の頬は不自然なほどに緩み、「うぇへ、うぇへへ……」という声が漏れていた。聞いているだけで、気持ちが不安定になる声。
このクラスで異邦人と認識されている灰庭幻花という少女が、銀髪と醜い顔の傷を踊らせ、欣喜雀躍と喜びを表している。
この教室にいる人間の誰もが、少女の奇行を見つめていた。そうする他になかった。
しばらく少女は、緩みきった表情でその場に佇む。まるで酩酊しているかのように足元はふらふらとして、視線も定まらない。少しずつ、生徒たちも平静を取り戻し、ザワザワと、明確に困惑を表し始めた。ただでさえ、今朝にちょっとした騒ぎを起こしていたので、なおさらその度合は色濃いものだった。
「灰庭さん? ……どうしたの?」
「…………」
堪りかねたように、灰庭の前に座る水木風乃が声をかけるが、彼女はなお笑い続ける。
そんな灰庭に苛立つように、ざわめきはますます大きくなり、舌打ちも聞こえ始める。
これではいけないと、灰庭に注意を与えようと山口が口を開きかけた、その時だった。
「今日は」
鈴の音のような声。
灰庭は笑っていた。
先ほどまでの緩みきった笑顔ではない、幼子がキレイなものを眺めて喜んでいるような。
「彼が死ぬのに、うってつけの日です」
次の瞬間、教室が屍肉に包まれた。
ブリュリュリュ! と、泡立つよな音とともにその臙脂色の肉は蠢き、変形し、枝分かれし、腐臭をまき散らしながら触手のように教室一体で暴れまわった。
人は皆、一斉に悲鳴をあげ、誰しもがその場に屈みこんだ。逃げようにも、肉は室内を縦横無尽に覆い尽くしていた。
ブリュ! ブリュリュリュ!
屍肉のような腐臭が濃くなり、音が高まり、肉が激しく膨張する。
恐慌と、屍肉の躍動が最高潮に達した、まさにその瞬間――最初から何事もなかったかのように、いつも通りの教室に戻っていた。
平穏無事な教室に、まるで避難訓練のように座り込む教師と生徒たち。
彼らは皆、粛々と立ちあがり、生徒たちはそのまま自分の席に座り、教師の山口は何も言うことなくその光景を見届けた。彼らの眼は皆一様に真っ黒で、精神が抜け落ちたかのようだった。
ただ、一人の少女を除いて。
「水木さん、早く席に着きなさい」
「え? ……え?」
「水木さん」
「は、はい……」
一人、異空間に紛れ込んだかのような表情で立ちすくんでいた水木だったが、山口の、真っ黒な眼による、有無を言わせぬ指示を前に、ただ粛々と従うことしか出来なかった。
全員が席についたところで、山口は授業を続け、生徒たちは何事もなかったかのように各々の態度で授業に臨みだした。
それから数分して、五時間目終了のチャイムが鳴る。
「はい。じゃあ今日やったところは重要なところだからしっかりと覚えておくように」
と告げた山口を受けて、日直の宮田が授業を締めた。
こうして、至っていつも通りに彼らの時間は流れる。
「やー、おつかれー水木……どうかした?」
「え? い、いや、灰庭さ――」
「んー?」
「! ……い、いや、何でもない……ちょっとごめんね、ちょっと眠いから、一人にして貰っていい?」
「……ん? あいよー、お疲れー」
そう言ってニカっと笑う少女、藤田。
それ自体はいつも通りのものなのに、水木が灰庭の名前をあげようとした瞬間、彼女の目は真っ黒に染まった。
去っていく藤田の背中を見つめる間もなく、藤田は恐る恐る後ろの席を振り返る。
「灰庭さん? ――狹間田くん?」
五時間目終わり直前のとある数分間の記憶が飛んでいることと、教室から一人のクラスメイトがいなくなっていること。
つい先程まで、真っ黒な目をした彼らの中に、そのことを認識している生徒は、一人としていなかった。
水木が、半ば恐怖に染まった表情で振り返ったその先。
窓際の席、忽然とした空席があった。