1.お姉ちゃんはこう言った
お姉ちゃんはこう言った。
人間の一日を人間の一生に例えるのなら、午前中こそが青年期に他ならないのだ、と。
故に、人は青年であるなら、一つ欠伸する間も惜しんで、青春を謳歌すべきなのだ、と。
素晴らしき金言だ。
俺はこの金言の下に、この一日、この早朝を、爽やかな晴れやかさを以って過ごす義務があるのだ。
「ふあぁ……妖怪人間クソネミィ……」
しかし実際は、抗いがたい眠気に纏わりつかれ、青年どころか、さながら生き甲斐をなくしたお年寄りのように活力の欠片もない足取りで、学校に向かって歩いていた。
お姉ちゃんはさらに「朝から欠伸ばかりでシャンとしない人間は、電柱に頭をぶつけて泣きを見るのよ」とも告げているが、それでも俺の眠気は一向に取れないし、故に俺の欠伸も止まらない。
お姉ちゃんという偉大な先人の教えをロクに守ることも出来ず、欠伸混じりでメールを眺めている歩きスマホな男子高校生。
それが俺、狹間田遊里だった。お姉ちゃんが言うには「まるで里で遊ぶように伸び伸びと育つように。美しい名前よ、誇りに思いなさい」とのこと。実に得難い。
駅周辺の繁華街を早々に外れ、住宅街に入って少し歩いたところ。そこに俺の通う騎部草高校はある。駅から学校まで、徒歩で十分程度だ。
アパートや一軒家が立ち並ぶ住宅街を、灰色を基調とした地味めなブレザーを着た男女たちが学校に向かって歩いていた。
彼らと同じブレザーを無難に身に着けている俺もまた、彼らのうちの一人というわけだ。
――ごめーん! やっぱり今日もブラック残業になるの確定的に明らかだから、そっちでご飯作っといて!
何を隠そう、メールの相手はお姉ちゃん。俺は襟を正す思いで精一杯欠伸を噛み殺しつつ、ササッと了解の旨を返しておいた。
それからほとんど間を置くことなく、軽快な受信音が鳴る。
――いつもごめんねー。まだしばらく修羅場ってるから、しばらく家に帰れないかもー。
お姉ちゃんのメールの返信はいつでも光の速さだ。中小出版社の雑誌記者で、残業残業また残業といった多忙な日々を送っているのに、律儀で素敵なお姉ちゃんだ。結婚したい。
思わず微笑みながらメールを眺めていたその時、ポンッと背後から肩を叩かれた。
振り返ると、見知ったイケメンが一人。微塵も混じり気のない、純度一〇〇%の爽やか笑顔だった。
眼鏡で瓜実顔で長身。ただ普通に身に付けるだけでは堅苦しい真面目くんといった印象を与えかねないブレザーを、程よくカジュアルに着こなす様がイケメン振りに拍車をかける。これで見知らぬ奴なら、なんだこのいけ好かないイケメンはと、内心毒づいていた。
「やあ、モーニンモーニン」
そして挨拶もこんな感じに世にも爽やかな調子である。こんなの、その辺の凡夫がやったら激寒なギャグだ。
「おう、っはよー、草薙」
しかしこれがこいつの平常運転なのだと知っている俺は、普通に挨拶を返す。
「うん、おはよう、狹間田くん……あれ? 朝から彼女とラブメールかなにかで?」
「んなわけねーだろ、俺に彼女いねーの知ってんだろ、爆ぜろリア充」
「あっはっはっ! 僕もここ一年は不在だからお互いさんだよ。お互いボッチは辛いねえ」
イケメンらしい如才のない受け応え。
俺はハンッと鼻で笑いつつ、スマホを胸ポケットにしまった。
こいつは草薙博文と言って、さっきから強調している通り、爽やかイケメン準二級といった感じの奴だ。それこそ、さっさとリア充グループ入りしてリア王にでも君臨すればいいのに、ニコニコ顔で「いやあ、柄じゃないんだよねーこれがさー」などと言い出して俺と友人なんてやってる変な奴だ。
「っていうかお前、いつもそうやって独り身アピールしてくっけど、そんな寂しいならさっさと彼女作れよな」
「いやあ、そんなホイホイ彼女なんか作れませんって、イケメンじゃないんだから」
「鏡を見ろ。その上で背後からテメーの顔面を鏡ごとぶち割ってやる」
「あっはっはっ! 僕からしたら狹間田くんの方がいい男さ! 結婚願望も禁じ得ないね」
「分かった。今すぐ俺から離れろ。そして二度と俺に近づくな」
「そんなことしたら狹間田くんにイケメンって言ってくれる人がいなくなっちゃうよ! 僕でさえ同情心で言ってるだけなのに!」
「よし、今すぐ鏡の前に立て。そのキレイな顔をガラスごとフッ飛ばし――」
――ふあああああああぁぁぁ……。
近くの人が振り返りかねないほどに盛大な声量。そんな欠伸が唐突に漏れた。どんだけ眠いんだよって感じの欠伸だったが、実際そんだけ眠いのだ。
草薙も、これには苦笑いせざるを得なかったようだ。
「どうしたの狹間田くん? なんか今日は随分と眠たそうだね?」
「ああ、妖怪人間クソネミィって奴だ、ふああ……」
「寝不足? 昨日はどのくらい寝たの?」
「四時間半」
うわあ、と草薙は大袈裟なリアクション。
「そりゃ寝不足一直線だね」
「ホントだよ。お前の睡眠時間を半分よこせ」
「嫌だよ。そんなことしたら僕の七時間睡眠が台無しじゃないか」
規則正しい生活習慣は美容と健康の基本だよーと女子みたいなことを言い出す草薙に、俺は欠伸を返してやった。
「もう、少なくとも、そんなになる前に自重しないと体調壊しちゃうよ?」
「体調を壊したってわけじゃねえけど、すげえ悪夢は見ちまったんだよなあ」
「悪夢?」
「そっ、悪夢」
ふうん、それは難儀だねえ、と草薙は気遣わしげに言う。
「いやホント、酷え悪夢だったんだけどさ」
「へえ。どんな奴?」
「聞きたいか?」
「聞きたいね!」
気持ちのいい即答。素直な奴だ。素直な奴は出世するのよ、それに計算高さがついてくれば完璧ね、とお姉ちゃんは言った。
というわけで、こいつにはとびっきりの恐怖体験を聞かせてやろう。
「それがな……」
「うん…………」
「……あれ?」
「……うん?」
「覚えてない」
へ? と草薙はマヌケな声を漏らす。
「いやいやいや、その振りで覚えてないとか狹間田くん……」
「いや……いやあ、これがマジで覚えてねえんだな。物凄え悪夢だってことだけは覚えてんだけどさ」
別にすっとぼけてる訳じゃなくて、本気で覚えていない、というか思い出せないのだ。
本当に洒落にならないレベルで酷い悪夢だったことははっきり覚えているのに、具体的に思い出せない。
ついさっきまで、具体的なディティール込みで語ろうとしていたのに。
「…………ふあぁ……」
重たい眠気が、絶え間のない自己主張を繰り返している。
「狹間田くん、本当は夢なんて見てないんじゃないの?」
「かもしれんな……ふああ……」
「かもしれんなってキミ……」
いよいよ呆れる草薙だが、実際本当にそんな気もしてくるのだ。単純に、俺の思い込みだったような……。
「まあそんな訳で、今日は……ふあぁ……本調子じゃないから、多分一日寝てるわ。悪いけど今日のノート、後で見せてくれな」
「え? それはいいけど……」
「今日の昼飯のブレンドコーヒーくらいなら奢ってやるよ」
「ホント?」
やったね! と草薙は無邪気に喜んだ。要するに学校の自販機の安いパックコーヒーなのだが、こいつはそれが好物で、簡単な頼みごとならこれで聞いてくれるのだ。
「でもまあ、どうせ寝てるなら、今度は悪夢じゃなくて淫夢が見れるといいね」
「あれはとびっきりの淫夢だった」
「え?」
「え?」
俺と草薙が顔を見合わせる。きょとんとした顔の草薙が首を傾げていた。
「……ん? 俺、何か変なこと言ったか?」
「変なこと言ったかって……キミ、実は夢の内容覚えてたりしない?」
「いやだから、覚えてないって、ふあぁ……」
「えー……大丈夫? 何か、意識が飛びかけたりしてない?」
「いや、してないと思う、けど……」
俺としては、単純にいい加減な軽口を返したつもりだった。
それこそ――自分で何を言っていたのかを忘れる程度には。
訝しげな視線を向けてくる草薙だったが、やがてため息混じりに口を開いた。
それは、さり気のない小言といった調子のものだった。
「ホントにもう、体調管理はしっかりね? 親元から離れてるからって、適当に生活してたら今日みたいになっちゃうんだからね?」
「離れるもなにも、端から親いねーけどな」
俺としては、間違った発言を訂正する、程度の気持ちだった。
しかし、草薙はたちまち表情を強張らせた。
「……ごめん」
うつむき加減にポツリと言う草薙。一応、簡単に事情を知っていただけに、なおさら罪悪感があるのだろう。
「いいっていいって。もうガキの頃からの話だからなんともねーよ」
それに、お姉ちゃんもいるから全然寂しくない。むしろ、そんなに気を使われる方が嫌な時もあるくらいだ。
要するに、交通事故だ。
俺が小学生の時に車で事故って、俺だけが助かった。両親が変わり果てた姿になり、俺一人が全くの無傷だった。
そんなわけで現在は、出身地の千葉から父方の祖父母の実家がある埼玉に移り、姉とアパートを借りて暮らしている。姉は先輩のコネで入った中小の出版社に務めていて、俺としても高校なんか行かないで社会に出るか、せめてバイトくらいはしたいと思っているのだが、「そんなことを考える暇があったら貴重な高校生活を楽しみなさいな」と譲らないので、結局はそれに甘える形になっていた。
「ふあぁ……まっ、悪いと思うんなら、ノートしっかり取ってくれな」
「……うん。その代わり、ブレンドコーヒーは忘れないでね? 昼休みの一杯は、ちょっとした生き甲斐なんだからさ」
「やっすい生き甲斐だなあ」
「安くないよ! 毎日一〇〇円って結構な出費だからね!?」
空気を読んだ草薙がいつも通りの軽口を叩く。まあ要するに、寝不足が祟って調子が悪い時にちょっと気まずくなるようなことを言われてちょっと空気が悪くなっただけだ。
「……でも俺、一体、どんな夢見てたんだろうな……ふぁあ……」
ボンヤリと、それだけが頭の片隅で引っかかっていた。