0.悪夢
俺は今、夢を見ている。
それは、とても幸福な夢だった。
失われた理想郷を、偲ぶかのような。
太陽の光がさんさんと降り注ぐ下、父さんと母さんの大きな手に繋がれて街を歩く。
あらゆるものが、小学生当時の姿をした俺よりも大きくて、自分を愉快にしてくれるようだった。両親の手は、太陽のように温かくて、安心だった。
この幸福を伝えようと顔を上げた。
その瞬間、自分以外の何もかもがパチンッと消えた。
まるで、何かのスイッチが消えたように。
あるいは、何かのスイッチが入ったように。
俺は走りだしていた。むしろ逃げだしていた。俺のすぐ背後から悲鳴が上がる。巨大なものに踏み潰されたかのような断末魔。
俺の背後に迫っているのは、有無を言わせぬ絶対的な「死」。こいつに捕まれば、俺は惨たらしく殺されるだろう。
鼓膜に残る断末魔。
温もりが抜け落ちていく両手。
俺の眼尻から幾多の涙が流れ落ちた。
俺の姿は、いつの間にか現在のものに戻っていた。十五歳、高校一年の姿。
俺の目の前には劣悪な暗黒が広がっている。
辺りは漆黒に閉ざされ、腐臭が漂う。目の前は辛うじて開けているが、せいぜい一・二歩先の足元が一応安全らしいこと以外には何も分からない。もっとも、その足下は、血だまりの上を走るかのようにぬかるんでいたが。
この暗黒に終わりは見えない。
この逃避行は、ただ単純に、揺ぎない俺の死を先延ばしにしているに過ぎないのだろう。
あるいは、そうすることで到来するものへの期待を高めているに――
――!
俺は思い切り頭を振るう。
この感情に思いを馳せてはいけない。その感情を理解してしまったその時、俺は常軌から逸脱してしまうだろう。
そして俺の身体も限界を迎えつつある。
深刻な過呼吸、震える手足、今にも破裂しそうな心臓。涙は既に、枯れていた。
脳髄を支配するのははちきれんばかりの恐怖心。今すぐにでも思考を止めてしまえばきっと楽になれるのだろう、と俺は思う。大いなる虚無に飲み込まれ、存在そのものが無残に砕かれ無へと還る快楽に…………
思考は強制的に中断される。
俺の足はとうとう崩れ、弾かれるように倒れこんだからだ。
腐敗臭が立ち込める地面を這おうとした俺の背中を、「死」はとうとう捕らえた。
「死」は背中からのしかかり、俺の身体を抑えこむ。刻まれようが溶かされようが潰されようが、全く抵抗出来ない体勢。
しかし、途方もなく底抜けな多幸感がこみ上げてくるのを感じずにはいられない。
粘性のあるものが間歇的に泡立つような音がした。そして生温いものが絡みつく感触。まるで粘液まみれの内臓のような。
次の瞬間、肉の液に包まれた俺は、そのまま身体を持ち上げられた。想像したくもないが、ゲル状と化した肉がその身を自在に伸縮させ、包み込むようにして持ち上げているのだ。母親が赤子を抱き上げるように。
生々しい感触、凝縮された腐臭。
そう感じた次の瞬間、俺の身体が右横に回転する。
そして俺は、「死」と対面する。
それは――嗚呼、それは!
恐ろしいことに美しかった!
しかしもちろんそれは、筆舌に尽くしがたいほどに醜悪だった。
形容するのもおぞましい肉体――それは「肉の体」などという生易しいものなどではない。「肉で形成された体のような何か」だ。
生きた肉も死んだ肉も見境なくかき集め、一つの鍋にぶち込んで液状になるまで執拗に煮込み、何が生きた肉で何が死んだ肉か全く分からなくなったところで這い出たような姿。
にも関わらず!
地獄の遣いであるかのようなこの怪物が、天界の使者であるかのように美しかった!
一瞬たりとも直視していたくない肉塊の怪物を、その足先から頭の先まで畏敬をもって舐め回したくてたまらないという、意味の分からない高揚感。
狂気と狂喜が入り混じり暴走する終末的な感情とそれを想起させる怪物が、まさに濃厚な「死」を確信させるのだった。
――死にたくない。
俺の口から言葉が漏れる。
ドウシテ?
俺は目を見開いた。
確かに聞いた。口があるかも疑わしい怪物が、俺に口を利いたのを。
ドウシテ――ウソヲツクノ?
うそ……嘘を。
そうだ、俺は嘘をついている!
俺は死にたくないんじゃない。
俺が本当に望んでいるのは――!
再び、粘ついた泡立ちが響く。
怪物の肉体が縦横に広がっていく。おぞましい柔軟性を持った動きで形作るのは、まさに大口を開けた怪物そのもの。その大口の闇は、この場の暗黒をも凌駕し、なおも深い闇に閉ざされていた。
「死」が眼前に迫り、俺は思考の何もかもを止める。
俺を包む肉の液が急速に「深奥」に向かって突き進む。
眼前に迫り、やがてその中に包まれ、そしてその深奥と――
――お姉ちゃん。
意識が深奥とは対照的な純白に塗りつぶされる直前、俺は恍惚とそう呟いた。