―20/バニラエッセンス―
桜花回、次で終了します。やっとバトルシーンが書ける!
死者:1人
行方不明者:8人
重傷者:13人
軽傷者:98人
回復魔法を使える人が殆どいない、という理由からあたしは軽傷者を中心に治療を行っていたが、幸いなことに1-Bの人たちの怪我は殆どが切り傷などの外傷だけだったため、範囲を一気に広げて魔法を唱えればすぐに解決できる問題だった。
但し、それはここに残っている人だけのお話。表面上の被害だったら、死者1人、行方不明者6人と偏ってる1-Bが最も甚大だ。
二日前の騒動で、一気に7人のクラスメートが消えた。
タクマほど極端な例じゃなくてもニコの衝動的行為に対して理解を示さない人物がたくさんいるのは事実。そもそも、あたしは別にタクマの気持ちが分からないわけでは無い。
寧ろ正しいのだ。何時暴走するか分からないような怪物を放っておくわけにはいかない。害になると分かってしまったものは、その人たちにとって排除される結末に至る。ウイルスが、その尤もな例。
確かに、これがもしニコじゃなかったらあたしもそういう立場に変わっていたかもしれない。
……でも。
変わっていた、と確信して頷けるかと言ったら、そうはいかない。
タクマのやっていたことは同じ人間として余りにも酷いとしか言いようがなかった。「害になる人間は死んでしまえばいい」なんて短絡的な結果があってはいけない。
諺に「良薬は口に苦し」なんて言葉があるが、それをもじって「良薬は毒で作られる」なんて言った方がいいだろう。事実麻酔と麻薬の成分はほぼ同じだったりする。毒が薬になるように、害も時に益に変わる。それは戦争内の経過で勝利した時も然り、毒の治療に別の毒を用いて治すことも然り。
ここまで言えば自分を正当化できる、とあたしは思っていたかった。
「結局、お前がやりたかったのは逃がすことで少しでもニコの生存確率を上げたかっただけだろ?その結果が、この有様だ」
クラスメートの男子に言われた言葉は至極その通りかもしれない。現実としては早々理知的に考え付く理由ではなくて、その標的が私の愛している(・・・・・・・)ニコだから、という単純な理由。
「微妙な選択を何で今更信じてしまったんだろ」
中途半端に逃がしてしまうくらいなら、説得なり、最悪無理やりにでもエヴァンさんのところに向かっていけば良かったのではないかな、と後悔はした。
でも、それは広範囲に治癒魔法をかけているときに過ちと気づいたのだ。範囲内のターゲットに回復魔法をかけるときでさえ途轍もない集中力と魔力を使用した。エヴァンさんは、それをかなり大規模な範囲で行っただけで化物じみた魔力と集中力を保有していることになる。そこにレジストの概念がある状態異常系統が入ったならば?
至極簡単、普通ではすぐ枯渇するだろう魔力を、あたしを庇う為にエヴァンさんが使い果たしたに違いなかった。
「タクマが既に動き始めている。異世界に入った時も能力がない、という弱点を見つけてニコを消し去ろうとしているだろう」
その時に、常に誰かが一緒にいることは出来なかった。自衛手段がないといつ死んでもおかしくない状況であったし、仮にあったとしてもいつ死ぬかがおかしくない状況でもあった。
あたしはニコを抱きしめた。ニコが幸せだ、と言ってくれるようなことをあたしなりにしてみた。そのためにあたしは自らの身体も捧げた。
「こんな結果は……おかしいでしょ」
その嘆きは、今回の騒動で出された結果というより、愛する人があたしの元から離れたという絶望的な気持ちの方が強かった。
幼いころに意図しない結果で離れた。そこからまた再会したら、1か月たった直後にまた離れてしまった。この先二度と会えないかもしれないという恐怖の感情が、また蘇る。
それから更に一週間ほど。その間に二度、あたしは夢を見た。
一つ目はニコがタクマに短剣で刺される悪夢だった。
その時、目覚めたら暗闇の中にいて、とても怖いっていう感情があふれ出した。ただそれだけ。
でも、今日見た夢は、とても不思議だった。まるで過去の記憶をさかのぼってみているようだった。
4月。
入学してまだ間もない。あたしがニコを見つけ出して二日目くらいだった気がする。
「……名前、思い出せない」
あの時はたしか教室の窓から西日が射していた。あたしはどういう理由か忘れたけど、その時は偶々遅くまで残る用事があったから、教室に鞄をとりに戻ろうって思ってた。
「ニコ、どうしたの?」
錆びた指輪をじっと見つめてるニコに、あたしは猫っ毛な髪をわしゃわしゃと撫でた。
でも、少し違ったのは嫌がる反応を見せなかったことだ。
ニコの素振りを見ている限り、あたしの正体が幼少期に約束した婚約相手だということは知らなさそうだった。言ったところで余計に混乱させるだけだから、いっそニコが思い出すまで何も言わないでおこうと心に決めていた。
「篠瀬さんは……名前も、記憶も、なんか靄がかかって思い出せない人っている?」
「桜花って呼んでよ」
「だからその名前で呼びたくないって言ったでしょ」
現実を言えば、こんな感じであたしは何処か避け続けている気がした。
ニコはそのまま語り続ける。
「……僕は、小学校に上がる前の記憶が全部変に靄がかかってる。でも、このお守りと、パパって名乗る人の言葉と、キスの感触ははっきり思い出せる」
ああ、そういえば、幼少期に一度だけキスしたことがあった。あれは、その時のニコが本当にかっこよかったんだっけ。
「お前は他の誰よりもやさしい。優しさで食っていける人生じゃないが、優しさもいつか自分に跳ね返る。パパって名乗る人が言ってた」
優しさで食っていける人生じゃないが、優しさもいつか自分に跳ね返るっていう台詞は昔からあたしの父親の台詞だ。こう見えて、あたしはすごく複雑な関係に身を置いてるから、父親のことを尊敬している師として認識しているし、あたしを棄てた大馬鹿野郎とも思っている。
そんなあたしは意地悪なのよ。
「そんな大事そうな悩み、なんであたしに言うのかしら?」
大抵の人間だったらなんとなくかな、で返したりはぐらかしたりするだろうな、って思ってた。そこから敢えて冷たくしたら、どうなるだろうなって。
ところが、ニコは至極真面目な顔をしてこんなことを言ってきたのだ。
「匂い」
流石のあたしにもこの返答は予想外だった。
「なんか、篠瀬さんに出会ってからその女の子は甘い匂いだったって急に思い出したんだよね」
あたしに、匂いなんてあったっけ?洗剤も柔軟剤もごくありふれたものを使ってた気がするけど、それ以外で……
「バニラエッセンスの香り」
そう悩むこともなくニコが答えをくれた。バニラエッセンスの香りはあたしも昔から好きで、香水代わりに水で薄めたものを服とか体にかけてた時代があった。
「何でか知らないけど、昔から大好きだった。そのままだと甘すぎてくらくらするから水に薄めて香りを抑えてたんだ」
「でも、それだけじゃその女の子の匂いにはたどり着けないよね?」
「篠瀬さんは飴耳?」
予想外の返答の次は誰に対しても予測がつかないと思う質問の内容。今日のニコは何かおかしい気がする。
「う、うん、そうだけど?」
確かにあたしは飴耳だ。耳を掃除するときもお風呂上がりで定期的に掃除しないと変にたまるし、何より飴耳の人は体臭がきつい傾向にあるってどこかで見たから常に対策はしている筈、なのだが。
「これは割と最近になって分かったんだけどさ。人間って自分の遺伝子と相手の遺伝子が遠いほど好きな匂いになるんだって」
脈絡のない話に、相槌を打つこともできず、ただ困惑していた。その時だ。
「桜花」
名前で呼ばれた。びくん、とあたしの身体が跳ねた。
初めてニコにあの名前を呼ばれたときは泣いていた。あれから十年近くたったいま、そんな面影はどこにも無い筈なのに、無意識に幼少期と重ね合わせてしまう。それに嬉しかった。ニコが変わらず桜花って呼んでくれることが、とても。
「なんか匂いが似てるの」
気づくと、ニコはあたしを抱きしめていた。肌の温もりと温もりが、重なり合うように、お互いに手をつないだ。
「髪、撫でて。落ち着くまでね」
同一人物だからって言えるのもそう遠くない未来のような気がした。
このまま一緒にいたら、いつか本当に思い出しそうな気がした。
「ニコは、甘えん坊さんだね」
とてもとても、久しぶりにそんなことを言った気がした。
目覚めた時にはまだ朝の五時。時計の目覚ましは、まだなっていないし、今日は訓練はお休みの日。
夢から覚めて、本当に一瞬ニコの面影を探して、でも直ぐにそれは叶わぬことを知った。
「っぅ……」
会いたい。抱きしめて、その猫っ毛な髪に触れたい。欲を言うなら、もう一度、そういわずに何度でも、キスもえっちもしたい。
募る思いのせいで身体が嫌に疼く。今日はそんな感情が特に強かった。
「……っ、ぁ、……に、こぉ……」
自ら胸や秘部に当てている手が、ニコの手だったら。
あたしはそういう想いに浸りながら、自らを自らで慰める。
―同刻、研究所にて。―
「確かにここ一週間で一番成果が上がっているのは1-Bの篠瀬だ」
風格があるやせた老人と、飄々とした研究者らしき人物が、ディスプレイに映っている少女の顔写真を見て討論を始めている。
「だが、魔物討伐に出させるとなるとな。いかんせん彼女の精神は余りに脆すぎる」
「それは私も同意見です、ただ近い未来に彼女は旅に出なければいけないと思いますね、そこで起きる残酷な事実なんて色々ありますから」
「うむ……個人としても風見が最初の犠牲者になってしまったことには誠に残念に思っておる」
そこに。
静かに、重く、ノックの音が鳴る。
「何者です?」
「……ガウスだ」
低い、落ち着きのある声が聞こえた途端、一瞬だけ研究者風貌をした中年が顔を歪めた。
「ほう……どうぞ」