半熟彼氏
「あっ」
「やっちゃった」と思ったときにはすでに遅く、溢れ出した黄色いシミはどろりと広がっていく。もう修復不可能だ。シミが広がっていくのを呆然と眺めるしかない。
「どうした?」
ユウコが危惧していた通り、小さな悲鳴にマサルは耳ざとく反応してくる。
こんな、どうでもいい時だけ耳が良いのだ。
「あーあ、なに破いちゃってるの」
覗き込まれたフライパンの中では目玉焼きの黄身が破れてその中身が垂れ流れ、白身を侵食していた。
「オレは半熟のとろっとろが好きだって知ってるよな」
ずけずけと非難の声が浴びせられる。
「ほらー、どんどん固まっていく」
破けてしまったのだから当たり前だ。黄身は七十度に、白身は八十度に熱せられて固まる。白身が固まっているなら、黄身だって固まるのだ。
「ごめん。失敗しちゃった」
今さらだけど、フライ返しを振りながら謝る。
これは失敗をフライ返しのせいにしているのではなくて、フライ返しの扱いを誤ったためであることを知らせるためだ。
「これは私が食べるから」
「お前の分はもうできてるじゃないか」
確かに、キッチンカウンターの上では皿に移された目玉焼きがホカホカと湯気を上げている。白身のちょうど真ん中に綺麗な黄色の円が盛り上がっている。
しかしその目玉焼きの黄身は半熟ではない。しっかりと熱が通されて固まっている。
マサルは半熟が好きだけれど、ユウコは硬いほうが好きだ。
半熟のあのトロリとした食感が好きだというのはなんとなく分かる。でもそれ以上に、あのどこに流れていくのか分からない不安定さがイヤだった。黄身に合わせて食べ方を考えなければならないなんて耐えられない。黄身の頂点をぷつっと指したときに黄身が溢れ出てくる様子がたまらないとマサルは言うけれども、ユウコにとっては恐怖の時間の始まりだ。
それに食器洗いをしないマサルは知らないだろうけれども、皿についた黄身は落としにくい。
落としにくいとは言っても、洗剤をつけたスポンジで二、三回ごしごしとこすれば落ちてしまう程度だし、そんなに大変なことではない。でも、黄身がついていないよりはついているほうが洗う手間が増えるのは確かだ。
マサルはそんなことを知らないから、平気で黄身を皿につけて食べる。
彼が食べるのは良いけれども、自分はそんな食べ方をしたくない。
「二つ食べる」
「子供じゃないんだから卵の黄身ぐらいで駄々こねないって。半熟じゃないならどっちでも同じだし、オレが破れたやつ食べる」
自称、子供じゃないマサルが有意義な提案をする。
「半熟のとろとろが好きなんでしょ。新しいのを作るから待ってて」
失敗作に塩コショウを手早くして仕上げ、皿に移す。
目玉焼きにしょうゆやソースをかけたりしないところは、共通の嗜好だ。
「これで良いって言ってるだろ」
マサルはそう言って目玉焼きの皿を二枚、ダイニングテーブルに運んでしまう。
ダイニングテーブルに辿り着くまでのわずかな時間、ユウコはその後ろ姿を追う。
皿がテーブルの上でかちりと小さな音を立てるのを聞いて、ようやく新たな目玉焼きを作ることを諦める。鍋からスープカップに温かいオニオンスープを移し、テーブルへ運ぶ。
マサルはすでにトーストにマーガリンをこすりつけるガリガリとした音が響かせている。
「考えたんだけどな。いつもオレの目玉焼きを後に作るだろ。あの順番を逆にしたらいいんじゃないか。そうしたら、失敗してももう一回チャレンジできるだろ」
手渡されたバターナイフが新たなガリガリ音が響かせる。
マサルが立てていた音よりも荒々しい。
「なんだ、破れた目玉焼きはイヤなのか?硬いのが良いなら、破れてても一緒だろ」
「そういうことじゃない」
ユウコはバターナイフをびしっと突きつける。素人が扱っても殺傷能力ゼロであるが、マサルは不覚にも少々怯んでしまった。
「なんで私の目玉焼きを先に作っているか分かってない。マサルに温かい目玉焼きを食べさせてあげるためなんだよ。それを半熟のために順番を逆にしたら良いってどういうこと?冷めた目玉焼きが好きだってこと?」
「それはまぁ、温かいほうが良いけど」
「だったら今までどおりで良いじゃない。面倒くさいこと言わないで」
マサルはなにやら言わんとして口を開こうとするが、ユウコはぴしゃりと遮る。
「私だって、冷めているよりは温かいほうが好きなんだからね」
ユウコはトーストに目玉焼きをのせてがぶりつく。普段はそんな食べ方をしないけれども、今はそうしたい気分だった。
そんなユウコに煽られたのか、マサルもトーストに目玉焼きをのせて大きな口でかじりついた。がつがつと胃に収めていく。ユウコも負けじとスピードを上げたが、マサルは段違いの勢いで食べつくし、最後にスープを一気に飲み干した。
「熱っち」
一言もらした後に、得意げに口を開く。
「だったら一緒に作れば良いだろ」
「一緒に作るって?」
「最初にお前の分を焼き始めて、少し経ってからオレの分を入れれば良い。そうしたら、硬いのも半熟のも一緒にできるだろ。二人とも温かい目玉焼きが食べられる」
「ああ……」
ユウコは憑き物が落ちたような顔をする。
「そんなこと考えたことなかった」
「これで解決だな」
ユウコは一度ちらっと視線を逸らしてから、ゆっくりと食事に戻る。
「そうだね、今度試してみる」
その口元から、パンくずと一緒に硬い黄身がほろりとこぼれた。