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虐げられた小狸姫は冷徹軍神さまの番  作者: 百合川八千花


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09「あなたが、ほしい」

 私は一人、特別治療室があるという最奥の廊下を進んでいた。

 この建物の造りは、表の病棟とは明らかに違っていた。窓は少なく、分厚い石造りの壁が陽の光を遮っている。どこからかこだまする傷病兵たちの苦しげな呻き声に体が震える。

 鼻を突く石炭酸の冷たく鋭い匂いが、私の歩みを重くした。


(鷹島さん、あんな大きなお怪我をされていたのだから……きっと、今も痛みに苦しんでおられるに違いない)


 私の胸を占めていたのは、まだ見ぬ『エスα』という怪物への恐怖よりも、彼への純粋な心配だった。

 早く顔が見たい。声が聞きたい。

 はやる気持ちとは裏腹に、呼吸は浅くなっている。

 どれくらい薄暗い廊下を歩いただろうか。

 ふわり、と。

 消毒薬の匂いに混じって、場違いなほど甘い香りが鼻腔をくすぐった。


「……え?」


 思わず立ち止まる。

 それは、春の陽だまりに咲く花々を何十倍にも煮詰めたような、むせ返るような芳香だった。

 錯覚ではない。奥の部屋へ近づくにつれて、その匂いは粘度を増すように強くなっていく。一歩踏み出すごとに足元がふらつき、視界の焦点がぐらぐらと揺れた。


(なに、これ……。体が、熱い……)


 心臓が異常な早鐘を打ち、喉の奥がカラカラに渇く。

 恐怖のせいだろうか。

 それとも、これが冨佐子様が言っていた、彼が放つという『人類の上位種の覇気』なのだろうか。

 恐怖に足がすくむのに、私の体は見えない糸で縫い付けられたように、その匂いの源へと引き寄せられていった。

 やがて辿り着いた最奥の病室。その周りだけは不自然なほど人払いがされており、しんと静まり返っている。

 私は震える手で、おずおずと分厚い扉を叩き、重いノブを回した。


「——!」


 部屋に入った瞬間、むわっとした熱気と致死量の甘い香りが全身に叩きつけられ、私は息を呑んだ。

 そこにいたのは、軍服の上着を脱ぎ捨て、白いシャツの胸元をはだけさせた鷹島さんだった。彼は汗にまみれ、苦痛に顔を歪めながら、自らの首筋に、震える手で分厚いガラスの注射器を突き立てようとしていたのだ。


「たか、しま……さん……?」


 私の声に気づいた鷹島さんが、顔を上げる。

 眼帯に覆われていない左目は熱に浮かされ、うっすらと紅くにじんでいる。


「月守小夜子嬢」

「す、すみません……!」

「いや、丁度いい」

 

 鷹島さんはそのまま自らに注射を打つ。薬の効きがよすぎるのか、苦悶の表情を浮かべていたが、熱を帯びた瞳は冷静さを取り戻しつつある。

 この光景には見覚えがある。Ωの母が抑制剤を打つときに、よく似ている——

 

「婚約者となるあなたには話しておかなければならないことがある。この薬は抑制剤だ。俺の第二の性は……」


 彼が何かを言いかけた、その瞬間だった。


 ——ドクン、と。

 私の中で、何かが爆発した。

 彼から放たれる、限界を突破した狂おしいほどの甘い香り。

 それを肺いっぱいに吸い込んだ途端、私の頭から「恐怖」も「公爵令嬢としての振る舞い」も、それまで抱えていたすべての理性が真っ白に吹き飛んだ。

 下腹部を焼くような強烈な渇きが、強引に私の背骨を駆け上がっていく。

 視界が赤く染まる。

 気づけば私は、無意識のうちに彼へと駆け寄っていた。

 ポスッ、と鈍い音がして、手からがま口の財布がこぼれ落ちる。ずっと胸に抱き、大切にしていたあの『新聞の切り抜き』も、開いた手からひらひらと床へ落ちていった。


 この人が、欲しい——!!


「月守小夜子……?」


 戸惑う鷹島さんの顔を、私は両手で強く挟み込んだ。

 そして、一切の躊躇もなく、彼の薄い唇を奪っていた。


「んっ……!」


 重なり合った唇から、彼が小さく息を呑むのがわかった。

 女性の私よりずっと大きくて屈強なはずの彼が、私の強引な口付けに抗うこともできず、ただ熱い吐息を漏らして身をすくませている。

 もっと、もっと深く味わいたい。彼を私のものにしたい。噛み付いて、跡を残したい――。

 これまで知らなかった恐ろしいほどの独占欲が、私という人間の輪郭を塗り替えていく。


 外では、名も知らぬ鳥の囀りが聞こえる。

 からりと晴れた、穏やかな春の昼下がり。

 それなのに、この病室だけが、雨季の温室のような異様な熱気に包まれていた。


「あなた……は……」


 鷹島さんは腰が抜けたように床に膝をつく。

 金色の髪が荒い息と共に上下に揺れる。手が震えていて、体を支えるのも精いっぱいといった状態だ。


「ご、ごめんなさい……私……」


 私は立ち上がった。

 離れなければ。これ以上は彼を傷付けてしまう。けれど、扉へ向かおうとした途端、鷹島大尉の手が私の袂をつかむ。


「いい」


 低く掠れた声だった。

 普段なら一個中隊を動かすであろうその声に、今は命令する力が残っていない。


「何もしなくて、いい」


 鷹島大尉は、床へ落としていた顔をゆっくりと上げた。

 眼帯に覆われていない左目は、夏の日を思わせる若草の色をしていた。

 その瞳が私を捉えた瞬間、心臓が大きく跳ねる。


「これは、Ωのヒートだ」


 その言葉を、すぐに理解することができなかった。

 目の前にいる軍神が、国の英雄が、哀れなΩの訳がない。

 

(けれどこの香りは、私を誘っている——!)


「離れ……なければ……」


 鷹島大尉はそう言いながらも、袂をつかむ手を離せないでいる。

 震える手で必死に手を開こうとするが、できない。ヒート——Ωの発情が体を支配しているのだ。

 

「鷹島さん……」

 

 何か声をかけようとした時、彼の手が強く私の袂を引いた。

 どさりと音がして、ベッドの上に押し倒される。

 

「この……ヒートは……」


 鷹島さんは低くうめいている。

 彼の真っ白な肌に汗の球がにじんでいて、ぽたりと私の肌に触れた。

 じく……と、玉の汗が触れた部分が熱くなる。

 男性に押し倒されているというのに、不思議と危機感はなかった。

 

「あなたのα性に、あてられている……!」

 

 ありえない。私が、αだなんて。

 けれどそんな言葉すら紡ぐことはかなわず、私の体は熱に包まれる。


「あ、う……っ」


 鷹島大尉が、耐えかねたように声を漏らした。

 大柄な彼の身体が、崩れ落ちる。最後の理性で耐えていた腕が崩れ、私の上に折り重なる。

 彼は己の唇を血が出るほどに噛み締めて劣情に耐えている。

 視線が交わる。

 彼の、無防備に晒された白い(うなじ)が見える。

 あそこに牙を立てたい。噛みついて、血を流させ、私の所有物だと印をつけてしまいたい――。

 おぞましいほどの独占欲が頭をもたげ、私は自分の本能の凶暴さに恐怖した。


「たか、しま……さん……」


 声が震える。


「わたしは……」


 思えば私たちの婚姻は、破綻から始まっていた。


「あなたが、ほしい」


 私は本能のままに彼の項に噛みついた。

 それがαとΩを番う印であることを知っていながら、鷹島さんがそれを望まないと、知っていながら——

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