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虐げられた小狸姫は冷徹軍神さまの番  作者: 百合川八千花


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15「狐の来訪」

 表門に停まった車のエンジン音が止み、砂利を踏みしめる規則正しい足音が、離れへと近づいてきた。

 革靴の重い音。まさか、鷹島さんが来てくれたのだろうか。


「失礼する。誰かいるかな」


 透き通った声が離れの玄関から聞こえる。家令が離れまで通したらしい。

 今は母がいないので、来訪者の対応ができるのは私だけだ。慌てて床に散らばった髪を片付け、肩掛けを羽織って血を隠す。髪型を整えている暇はない。恥ずかしいが、このままで出るしかなさそうだ。

 

「た、ただいま参ります!」

 

 少しの期待を込めて玄関扉を開けたが、そこに鷹島さんはいなかった。

 軍服の上に立派な外套を羽織り、人の良さそうな笑みを浮かべた黒髪の男性。伊津名少将ひとりだけ。


「い、伊津名少将……」

「小夜子さん。突然申し訳ないね。少し、鷹島大尉の件でお話ししたいことがあってね」

「あ、あの……申し訳ありません。今は父も母も不在にしておりまして……」


 今は父も母もおらず、客人の対応をすることはできなかった。

 せっかく来てもらったのに申し訳ないと、おずおずと頭を下げる。


「構わない。私は君と話がしたくて来たのだから。鷹島シヅヲの将来の妻である、君と」

「……え?」


 『妻』、その言葉が耳に届いた瞬間、心臓が大きく跳ねた。

 これまで私は、公爵家の出来損ないか、政略の道具としてしか扱われてこなかった。ひとりの独立した女性として、向き合ってくれる大人は、彼が初めてだった。

 伊津名少将の後ろに控える家令と目線を合わせると、静かに頭を下げる。どうやら家の人間からも了承を得ているらしい。


「少し時間をいただけるかな?」

「は、はい……! どうぞ……」


 『私』の、初めてお客様だ。

 慌ててお辞儀をして迎えると、「緊張しなくていいよ」と伊津名少将は穏やかに笑っていた。


 ◇  ◇  ◇


 急いでお茶を淹れたものの、私の手はまだ微かに震えていた。

 カタカタと音を立てる安物の茶碗を、小さな座卓に置く。先日、本邸の豪華な応接間で、最高級の玉露と見事な茶器でもてなされた彼を、こんな隙間風の吹くボロ屋の離れで、しかも安茶でもてなすことになるとは。

 何より、今の私は肩のあたりで不揃いに髪を切り裂かれた、酷い有様だ。恥ずかしさで顔から火が出そうになり、思わずうつむく。


「……申し訳ありません。こんな、狭い部屋で……お見苦しい姿まで晒してしまって……」

「いや、いい香りだ」


 伊津名少将は全く気にする素振りを見せず、美味しそうに安茶をすすった。


「手は大丈夫かい?」

「えっ」

「血の匂いがするし、髪はばっさりと切られている。……何があったのか、聞かせてもらってもいいかな?」


 その声はひどく優しく、不思議な響きがあった。

 普段なら、家族の恥を外に漏らすことなど絶対にしない。しかし、彼が纏う空気は、不思議と私の強張った心を解きほぐしていく。


「実は——」


 気付けば私は、堰を切ったように全てを打ち明けていた。

 明朝に家を抜け出して鷹島さんに会いに行ったこと、母が入院してしまったこと、その隙をついて現れた冨佐子様に髪を切られたこと、そして手を深く切ってしまったこと。

 自分でも驚くほど口が回る。言わなくていいことまで言ってしまいそうで恐ろしかった。

 

「鷹島さんに……」


 けれど、鷹島さんに番の印をつけたことは口に出せなかった。

 自分が責められるのは仕方ない、どんな罰だって受けるつもりだ。だが鷹島さんがΩであることを、伊津名少将が知っているかもわからない。私の言葉で鷹島さんが傷つくことは耐えられない。理性が、回る舌を止めた。


「鷹島大尉が、何か?」

「いえ……なにも。とても優しくしていただきました。あの、服も買ってもらったのですが……汚してしまって」

「彼は気にしないよ。それよりも君が傷ついてしまった事の方が、私も彼も苦しい」

 

 伊津名少将はそう言うと、懐の中の手巾を裂いて手に巻いてくれた。男性に触れられるのに慣れておらず、心臓が早鐘を打つ。だというのに、しとどに流れていた血が、嘘のようにぴたりと止まる。


「血が、止まった……?」

「ただの応急処置と……あとは秘密にしておこう。衛戍病院に紹介状を書くから、そこできちんと見てもらうんだよ」

「あ、ありがとうございます……」

「お母様が戻るまでは、この家からも避難したほうがいいかもしれないね」

「でも、結納前に——」

「緊急事態だ、世間様も許してくれるさ。すぐに手配する。迎えは——ふふ、鷹島大尉にさせようね」

 

 私に行く場所なんてない。そう思っていたのに、とんとん拍子に話が進んでいく。

 伊津名少将は不思議な人だった。人生の全てを彼の舵取りで変えられてしまいそうな、そしてそれに不安を抱かせないような。抗えない魅力があった。

 

「それにしても……『Ω』が、軍神・鷹島を誑かした。冨佐子嬢はそう思って君を迫害したわけか」

「は、はい……」

「おかしいね」


 伊津名少将は鋭い光を瞳の奥に宿し、クスリと笑った。


「君は、どこからどう見ても立派な『α』なのに」

「っ——!」


 伊津名少将の言葉に心臓が冷える。

 私がαに覚醒したのはほんの数刻前。鷹島さん以外の誰にも気づかれていないのに、この人は一体いつその情報を手に入れたのだろうか。


「そんなに怯えなくていい」


 私の動揺を見透かしたように、伊津名少将は静かに目を細めた。実年齢とはかけ離れた若々しい顔立ちに、歴戦の将としての冷徹で深い光が宿る。


「廻天隊の情報はすべて私に来るようになっている。『君がαの片鱗を見せた』、と鷹島大尉から報告を受けただけだ、何もおかしなことはないだろう?」

「……っ」


 口ぶりからするに、鷹島さんは私と番になったことは告げていないようだ。

 ホッと胸を撫で下ろしながらも、私は慎重に頷いた。いつかは報告しなければならないが、それは鷹島さんと相談してからにしたい。うっかり口を滑らせて余計なことを言わないようにしなければ。


「その、通りです。でも、私は第二の性に目覚めていなくて……それが、突然」

「第二の性の目覚めはいつだって突然だよ。ほんの些細な切っ掛けが、運命を決めるものさ」


 伊津名少将は冷めたお茶を一口飲み、静かに茶碗を置いた。


「とはいえ、私も鷹島大尉も君はΩになると思っていた。だからこそ、鷹島大尉は君を気にかけていたのだろうし」

「え……?」

「Ωの迫害はよくあることだ。彼も相当に苦労したからね」


 伊津名少将の纏う空気が、ふっと冷たく、重いものに変わった。


「鷹島大尉はΩだ」


 知っていた。けれど、伊津名少将が重く口を開くと、まるでΩであることが大罪のように感じる。


「将来彼の妻となる君に、しっかりと伝えるべきだと思っていてね。Ωの軍人など許されない。なのになぜ、彼は軍に所属しているのか。知りたくはないかい?」


 私は、こくりと頷いた。あの人のことなら、どんなことでも知りたい。

 私の決意を宿した目を見て、伊津名少将は満足そうに微笑んだ。

 そして、ゆっくりと口を開いた。

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