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青い通訳者たち  作者: 久遠レイ


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第三十章 余白


 朝、地下区画の掲示板は、きれいすぎた。

 紙の角が揃い、ピンの頭が同じ高さに並び、付箋の赤だけが浮いている。

 整いすぎた秩序は、誰かの手の匂いがする。

 佐伯は紙の端を指でなぞり、ずれがないことを確認した。

 ずれがないのは安心ではない。

 ずれがないのに、何かが変わっていることがある。

 合同室の端末が鳴る。

 外部監査官の短い通知。


外部言説:拡散継続

追加:固有名(Saeki)出現

起点:匿名掲示板 → まとめサイト → SNS


 固有名。

 固有名が出ると、札ができる。

 佐伯は息を吸って、吐いた。

 感情ではなく、速度を落とすために。


 午前中、会議は三分で終わった。

 珍しい終わり方だった。

 終わり方が短い会議は、たいてい“別の場所”で決まっている。

 監察官が言った。

「固有名が出た以上、対策が必要だ」

 外部監査官が淡々と言う。

「対策は運用で行う。個人の扱いを変えない」

 大佐が言った。

「変えないのは危険だ」

 佐伯が言う。

「危険だから、変えない。変えると札が強化されます」

 監察官は机に紙を置いた。硬い紙。


安全保障措置(暫定)

対象:関係者

内容:外部接触の制限

期限:未定


 未定。

 また来た。

 未定は、膜ではなく裂け目だ。

 外部監査官が言った。

「未定は不可」

 監察官が言う。

「例外だ」

 佐伯は淡々と言った。

「例外なら、期限と更新条件を」

 監察官は黙る。

 黙るのは、期限を嫌っているからだ。

 佐伯は自分の紙を出した。短い。


外部言説:固有名出現時の運用(暫定)

否定・肯定はしない

個人は語らない(札化防止)

生活条件は維持する(変更は監査承認)

期限:二十四時間(再評価)


 大佐が言った。

「生活条件?」

 佐伯は答える。

「ヒト相当です。これを崩すと、相手は“罰”と受け取る。干渉が増えます」

 外部監査官が頷いた。

「“外部接触の制限”ではなく、“外部発信の手順化”に置き換えるべきだ」

 監察官が言う。

「発信すれば燃える」

 佐伯が返す。

「燃やさないために、燃えない紙にします」

 燃えない紙はない。

 あるのは、燃えたときに音がする紙だけだ。


 昼、佐伯の端末に私用の着信が来た。

 登録名は短い。


 娘


 施設では私用は歓迎されない。

 だが歓迎されないものほど生活だ。

 生活を削ると、全てが任務になる。

 佐伯は廊下に出て、短く出た。

「いま大丈夫」

 娘の声は、遠いのに近かった。

「今日、帰るね。お正月だから」

 佐伯は一拍置く。

 一拍は、涙ではない。確認だ。現実の確認。

「……うん。待ってる」

 娘が言った。

「無理しないで。ニュース、変なの出てるけど」

 佐伯は淡々と言った。

「変なのは放っておく。こっちは紙でやってる」

「紙?」

「紙」

 娘は小さく笑った。

「相変わらず」

 佐伯は言った。

「相変わらずが一番大事」

 通話が切れる。

 切れたあと、廊下の白さが少しだけ優しく見えた。

 優しさは油断を呼ぶ。

 だが油断がない生活は、生活ではない。


 夜。

 面会の手続きが机に置かれていた。

 監察官の署名、外部監査官の立会欄、そして期限。


面会(暫定)

条件:監査ログ記録(要約)

時間:三十分

期限:本日限り


 要約。

 要約は嫌いだ。

 だが今日は、要約でも窓になる。

 地下区画ではなく、地上の面会室。

 ガラス越しの椅子が二つ。

 ガラスは分離の象徴だが、同時に暴走の抑止でもある。

 娘が座る。

 髪の匂いが、記憶の方から先に来る。

 佐伯はガラス越しに手を上げる。

 触れない。触れないことが守ることになる場所だ。

 娘は言った。

「ここ、変なところだね」

 佐伯は答える。

「変じゃない。普通が多い」

 娘が笑う。

「普通が多いのが変」

 佐伯は少しだけ頷く。

「そう。だから普通を守ってる」

 娘は、机の端に置かれた紙を見る。

 面会条件。時間。期限。記録。

「いつもこんな感じ?」

 佐伯は淡々と言う。

「いつもは、もっとひどい」

「ひどいんだ」

「ひどいから、紙がいる」

 娘はしばらく黙って、言った。

「怖くないの?」

 佐伯は答えない。

 怖いと言うと、娘の心に札ができる。

 代わりに言った。

「怖いものを、怖いまま置く。置き方を決める」

 娘が小さく頷く。

「お母さんっぽい」

 その言葉が、佐伯の中の何かを少し緩めた。

 緩むと、折れにくくなる。

 折れにくさは、強さではなく余白だ。



 面会の後、合同室に戻る。

 外部監査官が待っていた。

「固有名の拡散が鈍りました」

「なぜ」

 監査官は淡々と言う。

「あなたが“何もしない”を続けたからです。過剰反応がなかった」

 佐伯は言った。

「でも消えません」

「消さない方がいい」

監査官が続ける。

「消すと価値が上がる。札になります」

 監察官が入ってくる。

 表情は硬い。硬い表情は“決めた”表情だ。

「上が決めた」

監察官が言う。「明日、会見だ。『回収機体』について触れる」

 佐伯は淡々と言った。

「呼称規則は」

「守る」

「守れる言い方がありますか」

監察官は言う。

「『宇宙船ではない』と言う」

 佐伯は首を振る。

「否定は肯定になります」

 監察官が言う。

「なら黙る」

 外部監査官が言った。

「黙るのは、窓を閉じる」

 佐伯は言う。

「窓は閉じない。窓枠だけ出す」

 監査官が淡々と言う。

「『運用上の監査下にある』だけ言う。技術も目的も言わない。呼称は『回収機体』」

 監察官は渋く頷く。

 渋い同意は、いまのところ最良だ。


 深夜。

 地下区画の掲示板に、紙が一枚増えていた。

 誰が貼ったかは分からない。

 だが内容は、あの一行だった。

 例外に上限を。雛形に履歴を。署名を札にするな。

 右下に、番号。


 2/2


 佐伯は一瞬だけ目を細めた。

 自分が貼った覚えはない。

 外部監査官でもない。

 監察官でもない。

 番号が増えた。

 増えたのは紙か、窓か、穴か。

 AO―3が、インターホン越しに言った。

「余白ができた」

 佐伯が言う。

「余白?」

「あなたが戻った。外が少し静かになった。内が少し遅くなった」

 佐伯は小さく息を吐く。

「遅さは安定です」

AO―2が淡々と言った。

「だが遅さは、次の最適化を呼ぶ」

《アオ》が静かに言う。

「最適化は、余白を嫌う」

 佐伯は答えた。

「嫌うなら、余白を紙にします」

 掲示板の紙の角を、佐伯はほんの一ミリだけずらした。

 わざとだ。

 誰かが直したら、触ったことが分かる。

 紙は、今日も貼り直された。

 合意は、今日も更新された。

 娘は、帰ってきた。

 大波になるかどうかは分からない。

 だが今日のさざ波は、生活の音を含んでいた。



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