捨て犬
カーラが旧校舎の薄暗い廊下を通りかかった時、その少年はぶるぶる震えながらうずくまって泣いていた。
「あなた、どうしたの」
カーラが慌てて駆け寄ったのは、少年の着ている制服が無惨に破かれ、無数の足跡で泥まみれになっていたからだ。
抱き起こして怪我の程度を確かめる。
鼻血が出ているし、額からも出血している。少年に断ってから腕と足に触れてみる。よかった、折れていない。
「立てる?」
少年は頷いた。
「医務室に行きましょう。酷い目にあったわね」
まだ泣き止まない少年の手にハンカチを握らせ、背中を押して一歩踏み出した。
「あなた、一年生よね。だれにやられたの?」
「同じクラスの」
「まったく、こんなことをして許されると思っているのかしら」
「僕はチビだし、父親がいないから」
カーラははっとした。
「あなたミラー家のシリル君、だったのね。お父様のことは、とてもお気の毒でした。私のこと覚えているかしら、あなたが小さい時にうちに遊びにきたことがあったのよ」
少年、シリルはかすかに、はい、と答えた。
「カーラ様のことは覚えています。母様と一緒に、温室で珍しい花を見せてもらいました」
カーラはこの学園の最上級生であり、裕福な伯爵家の娘である。成績はきわめて優秀で、教師たちからの覚えもめでたい。
シリルのミラー家は子爵位だが、入婿であったシリルの父を昨年流行病で亡くしている。母親は甘やかされて育った一人娘で、後ろ盾も少々頼りない。
「シリル君、安心してちょうだい。もう二度とこんな目にあうことはないわ」
カーラはこの可哀想な少年を庇護すると決めた。
*
あれから五年。
カーラは二十歳になった。
あの時まだ十二歳だったシリルも今では見上げるほど背が伸びて、体つきは華奢だがいじめられていた頃の面影はない。
「それで、話って何かしら」
カーラの家のいつもの温室で、シリルはカーラを前にもじもじと何かを言い淀んでいた。
「好きな人ができたんだ」
ようやく口を開いた彼は、そう言って顔を赤らめた。
「あら」
カーラは笑顔のまま、それきり言葉が出なかった。後ろで控えていた侍女がはっと息を呑んだ。
「彼女はまだ学園に通っているんだけど、卒業したらすぐに結婚したいと思って。
家があまり裕福ではないから、苦労していて頑張り屋なんだ。とてもいい子だよ。
それで、今までカーラにはずっと良くしてもらって、心から感謝している。それは本当だ。
でも、あの、僕たちの婚約はここまでにさせてもらいたくて」
婚約はここまでに。
カーラはまだ笑えていた。
「カーラが婚約者になってくれて、本当に助かったんだ。カーラは僕の恩人だ。これからもそれは変わらない。僕はこれからはカーラに恩返しできたらいいなと思ってる。おかしな言い方かもしれないけど、カーラに親孝行、したいんだ」
カーラはシリルをぼんやりとみつめた。
カーラが与えた服を着て、カフスを着けて、靴を履いていた。
カーラとその友人たちとが四方に手を回したおかげでいじめられることのなくなった学園で、のびのびと学業をおさめ、卒業して子爵位を継いだ。
婚約はカーラがシリルを庇護するためにと、渋る両親を押し切って進めた話だった。
今にして思えば、シリルはまだ幼く、婚約とはどのようなものかをわかっていなかった。
優しい姉ができた、くらいの気持ちだったのかもしれない。
それが、いつのまにか、親孝行ときたか。
カーラは自他共に認める美人で、家は裕福で、なんなら王太子妃とは学園入学以来の親友である。
結婚相手として誰に劣ることもない。
そんな自分がまさか式を来月に控えたこの時期に、突然破談になるなんて思いもよらないことだった。
それでもカーラは微笑みを消さなかった。
「シリル・ミラー、私は何か見返りが欲しくてあなたを庇護したのではありません」
「わかってる。カーラは優しい人だよ。そんなカーラを僕は心から尊敬している」
「それならば、恩返しなどということは考えなくて結構よ。婚約を解消したいのね。わかりました」
シリルはぱっと顔を明るくした。
「ありがとう、カーラ。それでね、お願いがあるんだ。…どうかこれからも未熟な僕の良き相談相手であってほしい。僕が信頼できるのはカーラだけなんだ」
今度こそカーラの顔から表情が消えた。
「黙りなさい、シリル・ミラー」
「え」
「私があなたを信頼することはこの先二度とないわ」
*
カーラとシリルの婚約は綺麗さっぱりなくなった。
「誰が悪いかと言えば、私が悪いのよ」
王太子妃であるシャーロットとの私的なお茶会で、カーラは苦笑いしながら紅茶のカップを弄んだ。
「あの時は婚約することが最善だと思ったし、実際それでシリルを守ることはできたわ。
でも彼の気持ちを軽んじてしまったのかもしれないわね。
私自身、甘い恋愛なんて夢を見るたちじゃないものだから、うっかりしていたわ」
シャーロットは顔をしかめた。
「それでも私はあの男を許せないわ。式を挙げる間際になっていきなり破談だなんて、カーラにどれだけの恩があると思っているの。馬鹿にしているわ」
「貴女が怒ってくれるのは嬉しいけど、シリルにいじわるなんかしないでね」
「わかっています。
私がいじわるなどしなくても、現実を思い知ることになるだけよ」
カーラはさっさと、隣国の侯爵家の嫡男のもとへ嫁いでいった。
親友である王太子妃の口利きである。
カーラの伯爵家は全力をあげて花嫁支度を整え、莫大な持参金を持たせてカーラを送り出した。
シリルの家にはわずかな慰謝料しか求めなかった。しかし、以後の家同士の付き合いは途絶えた。
*
「あなた、カーラ様が里帰りでこちらに戻ってくるらしいわ」
その報せは妻のマリアからもたらされた。
シリルの酒で朦朧とした頭にその言葉は劇薬として作用した。
「あのクソ女が帰ってくるだと」
「先代の夫人が倒れたそうなの。お見舞いにくるみたい。お子様たちも連れて」
マリアはシリルとの暮らしに疲れ切っていた。
それはもう、この先どうなっても構わないと思うくらいに。むしろ、シリルが破滅し目の前から消えてくれることを望むくらいに。
「ははは、そうか。あの薄情なあばずれが帰ってくるか」
「ねえあなた、何度も言うけど裏切ったのはあなたと私よ。
カーラ様は裏切られた被害者なのよ」
マリアはわざとそう言った。
こう言われるとシリルはいつも激昂して手がつけられなくなる。
そのせいでシリルは心ある人たち全員から遠巻きにされている。
「物事の表面しか見られない奴らはみんなそう言って俺を責める。
でも違う。
いいかマリア、飼い犬を可愛がって育てる。ある日飼い犬が粗相をする。高い絨毯に糞をしたり、飼い主の手を噛んだりな。それで悲痛な被害者面して犬を捨てるのは正しい行いか?
違うだろ?
飼い主には、一度飼った犬を最後まで面倒をみる責任があるんじゃないのか?」
「あなたは犬じゃない。人間の、成人した男でしょ。こんな惨めな暮らしでも、あなたは子爵家当主なのよ」
シリルは苦く笑った。
「いいや、俺は犬だよ。
この階級社会では、どうやったって俺は犬でしかないんだよ。
…だから飼い主には責任を取ってもらわなきゃならないんだ」
そう呟いたシリルの目は、確かに捨てられた犬のように絶望していた。
*
その日、マリアは一日中何も手につかなかった。
朝目覚めるとすでにシリルの姿はなく、いよいよこの日がきたのだとわかった。
マリアのもとに報せがきたのは翌日のことだった。
実家の兄からもたらされた走り書きの手紙にはこう書いてあった。
“教会でシリルがカーラ様の長男を殺害。その後自分の首を切って自害。ミラー子爵家は取り潰しになるだろう。おまえは動くな。あの悪魔、とうとうやりやがった“
「ああ、神様」
マリアは手紙を握りしめた。
甘やかされた恩知らずの捨て犬。
野生に返されてうまく生きることのできなかった彼を、マリアは生涯弔い続けた。
捨て犬を拾ってはいけません。




