泥にまみれた誇り
何をされたのか認識する前に、私の視界は、気づけばシルヴァーレイスの鬣ではなく、地面になっていた。
全身がギシギシと痛む。
今まで乗っていたユニコーンを慌てて探した。
「シルヴァーレイス…大丈夫か…!?」
シルヴァーレイスはずるずると横たえた体躯を引きずりながら、こちらを心配するように鼻を近づける。
「1着!ヴァングロリア!」
そんな声を遠くで聞きながら、私は意識を手放した。
―柔らかいマットレスの感触を背中に感じる。
掛け布団の重みが心地よく、微かに香るベルガモットの匂いが更に私を心地よい目覚めへと促す。
重たい瞼をゆっくりと開ける。
意識が脳に、身体にゆっくりと浸透してくると同時に、身体のあちこちがズキズキと痛む。
まだ完全に輪郭の取れない瞳で、柔らかそうな栗毛の三つ編みを揺らしながら、こちらを心配そうに見つめる、年上の女性の姿を捉えた。
彼女は私が瞼を動かしたことをすぐに感じ取り、身を乗り出して覗き込んできた。
「リア、起きたのね!私のことが分かる!?」
「先輩…?ハンナ…ミットライトさん…?」
私が渇いた喉で掠れ掠れの声で言うと、良かった、と先輩は微笑んだ。
「そうよ、私は貴方の先輩のハンナ・ミットライトよ。あなた、今日の『若葉杯』で思いっきり落馬したのよ。覚えてる?」
落馬、と聞くや否や私は、がばっと上半身を起こした。
「シルヴァーレイスは!?」
ハンナが一瞬驚いた顔をすると、優しくたしなめる様に、
「シルヴァーレイスちゃんは大丈夫。先生に診てもらって今はゆっくり厩舎で休んでいるわ。だから、貴方も今は安静にして。」
彼女に促され、私は再びベッドに身体を埋めた。
そして、彼女は耳元で囁く。
「シルヴァーレイスちゃんは、ヴァングロリアちゃんに接近されて、興奮のあまりあなたを振り落としたことになっているわ。」
すると、私はまたがばっと上半身を勢いよく起こした。
「シルヴァーレイスは悪くありません!あれは、ヴィクトリアが―。」
と、言いかけたところでハンナは人差し指を立てて私の唇に当てた。
「しーっ、今は静かに、安静に、ね。」
私は観念するかのように身体を倒すと、ハンナは続けた。
「貴方も、シルヴァーレイスちゃんも悪くないことは、私も分かってる。私だって貴方たちとずっと一緒だったから。」
ハンナは掌を広げて見せた。
「ヴィクトリアがこうやって魔法を使ったことだって分かってる。でも…。」
ハンナが言いかけたとき、ハンナが持っていた携帯魔石ラジオから、空気の読まない声が聞こえてきた。
「ヴァングロリア、期待に応えた初のV3出場、『若葉杯』制覇、騎手の方から今のお気持ちをお聞かせください!」
「最初は、敢えて他のユニコーンに逃げさせました。後ろから差す好機をひらすら狙い、ヴァングロリアならば差し切れると信じて敢えて泳がせたのです。その方が熱いレース展開でしょう?だから、完全にこの回は私の掌の上でした。V3でこの調子であれば、V1も夢ではない、と、ヴァングロリアへの期待が確信へ変わったと感じたレースでした。」
意気揚々とした声に耳を塞ぎたくなる。
「今回の戦い、馬主も、騎手も王族からは一目置かれたでしょう。今後のヴァングロリアとヴィクトリアさんのコンビに期待ですね!」
ハンナが慌てて音量を小さくする。
「空気を読め。ですか…。」
結局みんなそうか。と私は怒り半分、呆れ半分の調子で言った。
「不正を許せない気持ちは分かる。私も訴えようとしたの。でも、口止めされたの。証拠も無ければ、今の勝利に酔いしれているヴァングロリア陣営に水を差すこともできない。と。」
ハンナはそういうと、肩を落とした。
この競馬界では時に公正よりも重視されることがある―。今に始まったことではない。
私もプロとしてのデビュー前、研修生だったときに何度か先輩からその話を聞かされたことはある。
でも、この身をもって経験したのは初めてだった。
頭では分かっているつもりだったが、実際に経験してみると、仕方がない気持ちよりも悔しさの方が上回る。
「…先輩、暫く一人にさせてもらえませんか?」
ハンナは私の気持ちを察すると、力になってあげられなくてごめんね、と呟いて去って行った。
ほどなくして数日後、医師に診てもらったところ、幸い暫く安静にさえしていれば、騎手への復帰はできそうだった。
私は起きられるようになってから、すぐにシルヴァーレイスがいる厩舎へ向かい、彼女の様子を確認しに行った。
「リアさん、あんたそんな身体で来て大丈夫なのかい?」
調教師のギャレットが、まだ全身包帯だらけの私を見て、目を丸くしながら尋ねた。
「まあ、まだ節々は痛いけど…この子のことが心配で眠れないんだ。」
まあ、あんたはそういうやつか、とギャレットは灰色の髭の間から屈託のない笑みを浮かべた。
来な、と私を案内する。
どの厩舎のユニコーンもギャレットに懐いていて、歩く度に鼻を寄せてくる子や、通りすがりに鼻を撫でると喜ぶように鳴く子など様々な反応を見せた。
しかし、どの子も例外なくギャレットが厩舎に来ることを喜んでいるようだ。
その中から、見覚えのある柵の前に来る。
いつもは私が近づくと、すぐに柵の間から顔を出すのだが、今日は来ることはなかった。
奥の方でうずくまっているのが見える。
シルヴァーレイス、と声をかけると、ようやく私に気づいたようで、顔をこちらに向けてきた。
その瞳が、私に申し訳ない、とでも言うように潤んで濡れていた。
「あのとき、運ばれていったときはわしも驚いたよ。正直もうダメかと思ったところだ。でも、この子も少し体調が落ち着いて、最近この厩舎に帰ってこれた。今はだいぶ落ち着いたようだな。とにかく、回復優先で休ませてる。」
餌場を確認すると、好物の虹色チューリップも、少し残しているようだった。
「シルヴァーレイス、貴方を守ってあげられなくてごめんなさい。貴方は何も悪くない。悔しい気持ちは、私も同じだから。」
「シルヴァーレイスも、あんたも、少しお休みってところだな。なに、彼女もまた休めば走れるようになるって医者も言ってたし、大丈夫さ。」
ギャレットは私を早く宿舎に追い返したいようだ。
私も観念して、シルヴァーレイスのことをお願いすると、厩舎を後にした。
厩舎を後にして、宿舎の方へ戻ろうとすると、おーい、と屈託のない笑顔でこちらに手を振るいつかの青年の姿が見えた。
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