落ちた先で
背中から床に叩きつけられた瞬間、肺の中の空気がすべて絞り出される。
骨が砕けるような痛みが全身を走り、反射的に叫ぼうとしても声にならなかった。
――左腕が、ない。
遅れてやってきた激痛に意識が飛びそうになる。肩から下がごっそり削がれ、血が瓦礫に滴り落ちていた。先ほど《ドレッド・トータス》の爪がかすめた時に、持っていかれたのだ。
「い……っ、ぐ……っ」
喉が焼けるように乾き、頭の中は真っ白だ。呼吸一つまともにできない。落下の衝撃で背中も脚もずたずたになっていて、立ち上がることすら難しい。
――このままじゃ出血で死ぬ。
震える右手で腰のポーチを探り、応急用の薬瓶をつかみ取る。中身を体中に振りかけると、焼けつくような痛みが全身を走り抜けた。喉を裂く悲鳴が漏れかけるが、必死に噛み殺す。
血が沸騰するように泡立ち、肉が無理やり閉じていく。だが傷が塞がるのは表面だけで、腕を失った現実はどうしようもない。
「っ……はぁ、はぁ……」
全身が汗に濡れ、視界が揺れる。とりあえず、出血は止まった――それだけが救いだった。
どこから落ちてきたのか、もう見当もつかない。見上げても天井は闇に覆われ、裂け目も、仲間の姿もなかった。
帰れない。ここで終わる――そんな絶望が、胸の奥に重くのしかかる。
だが、かすむ視界の先に見えた光景が、僕を無理やり現実へと引き戻した。
周囲は今までいた場所よりも荒れ果てていた。石畳は砕け、建物は半ば崩壊し、何百年何千年も前から放置されていたように見える。けれど、その瓦礫の合間から覗く壁や柱は、僕らが歩いていた外縁部のものとは比べものにならないほど装飾が施され、荘厳さを残していた。
そして――遠く。ひときわ大きな建造物がそびえ立っていた。聖堂のような建物で圧倒的な存在感を放っている。
「……はぁ……はぁ……」
呼吸は荒い。視界は揺れ、足も思うように動かない。失血と痛みで今すぐにでも倒れ込みたい。
それでも、僕は前へと身体を引きずった。
理由なんて考える余裕はなかった。ただ――あの聖堂なら、この状況を打開する手がかりがあるかもしれない。外へ繋がる道があるかもしれない。
希望というよりは、藁にもすがる思いだった。
瓦礫に片手をつきながら、一歩ずつ。
ぼろぼろの身体を無理やり引きずり、僕は聖堂を目指して歩き出した。
***
周囲の建物をいくつか覗き込んでみるが、中はどれも荒廃しきっていて、生活の痕跡らしいものは残っていなかった。床は抜け落ち、棚や机のようなものも砕けて粉々になっている。
歩いている途中、一枚の看板が瓦礫の下から顔を出していた。掘り起こすと、そこには文字が刻まれていた。
だが、僕の知る文字体系とはまるで違う。幾何学的な線が連なり、ただの模様にしか見えない。
「……読めない、か」
何か情報を得られるかと期待した分、肩が重く沈む。
看板を放り捨てると、カラカラと音を立てて転がった。大した音量ではないはずなのに、その音がやけに耳に響く。
ここに来てからというもの――何か違和感があった。
耳に届く物音、空気のざらつきなど、普段では全く気付かないようなものが鮮明に感じ取れる。
死にかけて感覚が研ぎ澄まされているのか……。
慎重に廃墟の影を縫って進んでいた時だった。
遠くから圧倒的な存在感を帯びた気配がこちらに向かってくる。思わず呼吸を止め、瓦礫の隙間から気配がする方向に視線を向けた。
――そこにいたのは、巨猿。
まだはっきりとは見えないが、ドレッド・トータスと同じほどの巨体を誇る猿型の魔獣だった。
全身の筋肉は異様なほど肥大化し、特に腕は地面を砕きかねないほど発達している。頭から伸びる二本の角は雷を帯び、バチバチと紫電を散らしていた。
その肌や毛並みは所々裂け、裂傷が幾重にも刻まれている。
「……もしかしてこいつが、ドレッド・トータスを……?」
古代都市の外縁部にあの亀が現れた理由が少しだけ理解できた気がした。おそらく、あの巨猿との戦いで追いやられたのだろう。
そして――ここは、そんな怪物が縄張りとする領域。
僕は崩れた壁の影に身を寄せ、ひたすらその巨影が通り過ぎるのを待った。
もし気づかれたら、命はないと悟りながら。