排水口に髪の毛が詰まる理由
「排水管に髪の毛って詰まるものなんですね」
そう言って私を浴室に案内してくれたのは都内のアパートで一人暮らしをされている女性・麻美さんです。ショートカットが似合うはつらつとした方でした。
リフォームされているアパートで内装は綺麗なのですが、建物自体は古いので、排水管などといった使い回される設備については、当然、ボロが出始めていました。
「洗髪剤や汚れの脂が管内にこびり付いて髪の毛が絡まるですよ。たいていは薬品なんかで流れるんですが、場合によっては専用の器具を使って押し出す必要もあります」
「へえ。私、短髪なのであれくらい大きな穴なら全部流れるだろうって油断してました〜」
作業を始めて三十分ほど。
排水管の奥の方から握りこぶし大の髪の毛の塊が出てきました。そこには爪なんかも混じっていまます。「これは大物ですね」と麻美さんと苦笑しつつ薬品を流し、ちゃんと水が通るかの確認を終えた頃には一時間くらい経っていました。
「すみません……私、昔からお風呂場で爪を切っちゃうんですよね。カーペットでやると絡まって取れなくなったりして大変で!」
「たしかに、浴室だと気にしなくていいですからね。削った爪の粉もすぐ洗い流せますし」
「いやあ、〇〇さんに頼んで良かったです。優子に聞いて正解でした」
「優子さんというと……金髪でショートカットの?」
「はい!」
優子さんというのはつい先日、同じように浴室の排水管洗浄の依頼を受けた女性でした。
紹介だったのかなと納得したのと同時に、私は不思議に思いました。
「お知り合いの方と連続して排水管が詰まるなんて珍しいこともあるんですね」
「……まあ、優子の場合は普通の詰まり方ではなかったですから」
麻美さんは目を伏せ、唐突に表情が暗くなりました。
なにか気を悪くするようなことを言ってしまっただろうか、なんかすみません、と謝ろうとして麻美さんがこんなことを口にしました。
「あの、〇〇さんは幽霊って信じますか?」
「え、はい好きですよ幽霊」
脈絡のない質問でしたが、常日頃周りに怖い体験談はないかと聞いて回っている私ですから、口をついてそう答えていました。
それがツボに入ったのか、麻美さんがふと笑みをこぼして、
「聞いてほしい話があるんです。ちょっとコーヒーでも飲みませんか?」
と言ってリビングに通してもらい、食卓につきました。
物が少なく、生活に必要な最低限の物が備えてあるといった印象の部屋でした。
腰高くらいの本棚の上にぽつんと写真立てだけが飾ってあって、私に見られるのが恥ずかしいのか伏せられてありました。
おそらく恋人との写真だろうと、私は少しこそばゆい気持ちになりました。
こう言ってはなんですが、顔を合わせた瞬間に綺麗な方だと思ったくらいですから、彼氏がいるのは当然だなと思いながらも、業者とはいえ男性の私と二人きりのこの状況はまずいのではないかと内心びくびくしていました。
そんな小心者の心の内など梅雨知らず、麻美さんが対面に座り、
「実は私、いわゆる霊感というものが昔からありまして、優子に部屋を視てほしいと言われたんです」
そう語り始めてくれました。
優子さん、ちょうど一年前に大学を卒業したそうで、就職先の近くにアパートの部屋を借りたそうです。どうも、その部屋で心霊現象が起こると言うのですが、麻美さんは疑問に思いました。
「心霊現象って、今までは大丈夫だったじゃない」
「『もともと』は大丈夫だったの。ほら、麻美だって何回も遊びに来てるけど、気持ち悪いとか言ってなかったし」
そう言われて、麻美さんはたしかにと納得しました。
心霊現象が起こり始めたのはここ最近のことだと言います。
なんでも大学時代から付き合っている彼氏と別れてからだそうです。
その彼氏は礼二と言って、麻美さんも知っている共通の知人でした。学生の頃は三人でよくつるんでいました。
「礼二に呪いをかけられたんだよ」
優子さんは断言しますが、麻美さんはそうは思えませんでした。
礼二さんというのが絵に描いたような好青年で、優子さんから別れを切り出されたからと言って一方的に恨むような人ではありません。
疑問に思う麻美さんですが、彼女の部屋に入った途端、考えが変わりました。
自分の部屋よりも築浅で広々としているのに、生乾きの服を濃縮したような陰鬱な空気が部屋の中に充満していたのです。
入るのも躊躇われましたが、このまま帰っては優子さんに不安を与えると思い、とりあえず様子を見ることにしました。
「どう? 何か感じる?」
「うーん……別にリビングはなんともないような……」
「さすが! やっぱり摩美の霊感は本物だね」
なるほど、試されていたのかと摩美さんは少しげんなりしました。まあ、優子さんの性格には慣れていましたから、それほど嫌な気はしません。
別の場所から異常な気配を感じてそれどころではなかったんです。夏の公衆便所よりひどい空気がそちらから流れ込んできています。
「……浴室、だよね? 変なことが起こってるのって」
「すごい、そこまでわかっちゃうんだ」
優子さんはここにきて具体的な現象について打ち明けました。
誰もいないのに勝手に流れ出るシャワー。
浴室の壁を指でノックするような音。
極め付けは、髪を洗っている最中に耳元で囁かれた女の声。
最初はたまたまだと自分に言い聞かせていましたが、次第に気のせいでは済まなくなってきて、麻美さんに相談するに至ったそうです。
「女の人の声がしたんだよね。それ、ほんとに礼二が呪いをかけてるの?」
「そう言われる、そうなんだけど……とりあえず霊視してみてよ」
リビングを出ていく優子さんについていこうとして、摩美さんは視界の端に違和感を覚えました。何気なくそちらに振り向きーーーー背筋が凍ります。
そこにあるのは遺影でした。
優子さんのおばあさんの遺影があったのです。優子さんはおばあちゃん子だったそうで、以前からおばあさんの遺影を三段ボックスの棚の上に飾ってありました。
麻美さんもそれは知っていました。
遺影があるのが問題ではない。
遺影が泣いていたんです。摩美さんの記憶にある遺影は少し微笑んだ表情をしていました。
目の前の遺影は口を大きく開けて、涙さえ流していなければ大笑いしているかのような表情をしているのです。
これだけはっきりとした怪異を見たのは初めてで、麻美さんは全身が強ばって動けませんでした。目を離したら遺影から飛び出して目の前に現れるんじゃないかと恐怖に襲われて動けません。
「きゃああ!」
幸か不幸か。
浴室から聞こえてきた悲鳴がきっかけとなって摩美さんの硬直が解けました。
急いで優子さんのもとへと駆けつけます。
「優子、大丈夫⁉︎」
「あ、あれ……」
脱衣所で尻餅をついていた優子さんが指差すのは、浴室の排水口でした。
排水口から、冠水したマンホールのように汚水がぼこぼこと溢れかえっていたのです。
それだけならまだしも、汚水の中には拳大に匹敵する金髪の毛だまりや大量の爪、写真を切り刻んだようなものが混じっていました。
大雨のときなら排水口から逆流することはあるかもしれませんが、外は雲ひとつない晴天、どう考えても逆流するなんてありえません。これも心霊現象なのかと原因を模索しようとして、ひやりとした冷気が背後から首筋をかすめました。
次の瞬間。
大きく口を裂いて泣く、若い女が浴室の鏡に映りました。
「あ、あ……」
「優子、逃げるよっ!」
腰を抜かす優子さんの腕を引き、麻美さんは部屋の外へと飛び出しました。
無我夢中になって駆け込んだのは近くのコンビニでした。すごい勢いで入ったものですから、レジ打ちの店員さんがぎょっとしていましたが、麻美さんが会釈をすると何事もなかったかのように業務に戻りました。
いつもの変わらない日常の風景に二人は落ち着きを取り戻しました。
とりあえず飲み物を買って喉を潤し、コンビニの外で先ほどの出来事を整理することにしました。
優子さんの持つペットボトルが小刻みに震えています。
「あれが私の部屋についてる悪霊なの……?」
「たぶんね……やっぱりさ、これって礼二の呪いじゃないと私は思う」
麻美さんがそう言うと、優子さんはなぜか罰の悪い顔でしてそっぽを向きました。
優子さんの態度に、麻美さんは点と点がつながり、ようやく腑に落ちました。
「優子さ、私に隠してることない?」
「それは……」
「ーーーー呪い。誰かにかけてるよね?」
タイミングを見計らって麻美さんがそう問いかけると、優子さんはやや間が空いてから「……うん」と頷きました。
結論から述べると、心霊現象の原因は優子さんが会社の上司にかけた呪いのせいでした。
礼二さんと上手くいかなかったり、日常的な不幸が重なり、ストレスが溜まっていた優子さんは、その全ての元凶が会社の上司であると決め、自分と同じ目に遭えばいいと呪いをかけることを決意しました。
そもそも、麻美さんや礼二さんと大学時代に出会ったのはオカルト関連の趣味が合ったからでした。オカルトが日常の優子さんにとって、上司への恨みを晴らす身近な方法が呪いだったのです。
詳細は省きますが、髪の毛、爪、呪いをかける対象者の写った写真、この三つを使う呪いとだけ記載しておきます。
大量の髪の毛を使う代わりに、その効果は絶大だそうです。
「でも実は、呪いの儀式は失敗してた」
と、麻美さんは心霊現象の原因を指摘しました。
呪いが他者にバレると自分に返ってくるのは有名な話ですが、当然、呪う『過程』でも危険は生じます。呪い自体が失敗したとなれば、自分の回りで怪奇現象が起きても不思議ではありません。
麻美さんによれば、浴室で行った呪いの儀式は失敗し、その結果、部屋の中に悪霊を呼び込んで閉じ込めてしまったそうです。
泣き笑う遺影も、浴室の心霊現象も、すべて呪いの失敗によって呼び込んだ悪霊によるもの。
どうしたらいいのかなと縋りつく優子さんに、麻美さんは簡単な話だよと背中を優しく叩きます。
「呪いの儀式をなかったことにすればいいの。そうしたら部屋に閉じ込められた悪霊も解放されて心霊現象がおさまると思う」
儀式をなかったことにする方法もここでは伏せさせていただきます。
とにかく準備を整え部屋に戻った麻美さんたちは、呪いの儀式を解き、無事に悪霊を解放したそうです。泣いていた遺影も、すっかり元の笑顔に戻ったと言います。
そこまで聞き終えて、私はぽんと手を叩きました。
「優子さん宅の排水口に髪の毛が詰まってたのは、呪いの儀式で髪の毛を流していたからなんですね。まさかそんな背景があったなんて……」
「業者さんでも流石に分からないですよね」
と、麻美さんは笑いました。
私は作り笑いを浮かべました。
そのとき部屋のチャイムが鳴ったんです。
「すみません、配達みたいです。ちょっと出てきます」
そう言って、麻美さんが玄関の方へと向かっていきます。
私の心臓は玄関まで聞こえてしまうんじゃゃないかと思うほどにバクバクしていました。彼氏が帰ってきたと思ったから? いいえ、そうではありません。
私の意識を釘付けにしているのは伏せられた写真立てでした。
話の道中から違和感を感じていたんです。
呪いに必要なのは、髪の毛と、爪と、呪いをかける対象者の写真。
優子さんが呪いに手を出した原因は、礼二さんと上手くいかなかったこと。それと日常的に不幸に見舞われたこと。
呪う前から、不幸が連続していた。
そういうことになります。
偶然といえばそれまでです。
この部屋の排水口が詰まっていたのも、単なる偶然なのですから。
けれど、もし。
この伏せられた写真が、私の思っているようなものだとしたら。
それも偶然で済まされるのでしょうか。
「……っ」
生唾を飲み込んで、無意識のうちに写真立てに手を伸ばしていました。
震える指先がフレームに触れる。
直前で。
「気になりますか?」
私の間近まで麻美さんが迫っていました。
美人の笑顔は間近で見ても人形のように整っていました。
言葉を詰まらせる私をよそに、麻美さんが写真立てを手に取りました。
「そうそう。これ、話に出てた礼二とのツーショットなんですよ。見るからに好青年でしょう?」
麻美さんはあっけなく、私に写真を見せてくれました。
写っているのは今より少し幼い麻美さんと、彼女の言う通りカメラ越しでも伝わってくる好青年の礼二さんでした。
私は「すごく素敵なツーショット写真ですね」と言って椅子から立ち上がり玄関に向かいました。
ドアノブを回し、視線をやや足下に下げたまま、私は頭を下げます。
「それでは私はこれで。失礼します」
「ありがとうございました。またーーーー『詰まったら』お願いしますね」
と微笑む麻美さんを尻目に、私は足早にアパートを出ました。
麻美さんはツーショット写真と言いましたが、あれ、間違いなく嘘だと思うんです。
だって明らかに誰かを切り取ったかのような跡がありましたから。
それに。
麻美さんの髪、長かったんです。
短髪にしたのがもったいないくらい綺麗な髪をなびかせて、写真の麻美さんは笑っていました。