冷蔵庫の中のアリバイ
死体が発見されたのは、三月の終わりだった。
気温が上がり始めた季節にしては、遺体の腐敗が遅いと解剖医は言ったが、それは重要ではない。
死因は首の動脈を切られたことによる失血死。凶器は遺体が握っており、検死の結果、自殺と断定された。
問題は、遺体の主が、その翌日に牛乳を飲んでいたことだった。
山瀬達也・三十一歳、単身者。
近所付き合いは薄く、アパートの住人にすら顔を覚えられていなかった。
職業はプログラマー。
収入は全て外注サイトから請け負った仕事で得ており、メールやネットを介しての他者との繋がりはあるが、実際に彼と対面した者はいなかった。
両親は幼少期に他界しており、親戚筋に引き取られたが、養父母とは折り合いが悪く、中学卒場を機に自立、それ以来連絡は取っていない。
つまるところ、天涯孤独。
生活必需品も全てネット通販に依存する徹底ぶりで、まるで自ら外界との接続を拒んでいるかのようだった。
遺体が発見されたきっかけは、宅配業者の通報だった。
配達に応じがない、ポストが溢れている、そして何より、抑えようのない異臭が、その部屋の扉と対面するだけで漂ってきた。
もう数日遅ければ、近隣住民が「俺のアパートが祭りかもしれない」などとネット掲示板にスレ立てしていたかもしれないが、ある意味幸いにもそうしたことは起こらず、善良にして不幸な配達員は、会社経由でその部屋の不審を警察に伝えたのである。
警察が突入した室内には、リビングでうつ伏せに倒れた彼の遺体があった。
首には刃物による深い切り傷。一見して他殺にも思えたが、凶器と思われる刃物は被害者が握っており、他の自分の痕跡が見当たらない。
詳しい死亡推定時刻は検死を待つ必要があるが、床に流れた血痕は既に乾ききっていて、少なくとも死後数日は経過していることは明白であった。
部屋には争った形跡がなく、もちろんドアの施錠もされていたが、窓の鍵は閉められておらず、密室というわけではなかった。
しかし刺し傷と、手の位置、ナイフの位置など、総合的に鑑みて、警察は自殺と断定した。
ただ、その殺人現場となった部屋をくまなく調べると、一つの異変が見つかった。
それは記録装置だ。
否、監視カメラなどではない。
そして本来なら、それを主とした目的の装置でもない。
――冷蔵庫だ。
※
警察の技官が解析したのは、最新型のスマート冷蔵庫だった。
冷蔵庫は、開閉時に自動で中の様子を記録し、クラウドに保存している。
これは、買い物履歴や賞味期限チェックなどの生活支援のためで、本来ならそれだけのものだ。
しかしクラウドの中の記録には、確かに、遺体発見の前日――午前七時十三分に冷蔵庫が開けられ、中から缶ビールが抜き取られていたことを記録しているのだ。
「……つまり、物取りってことですかね?」
「まさか。わざわざ忍び込んで、冷蔵庫から缶ビールだけ盗むか? それも、まるっきり指紋どころか、入った形跡も残さずにか?」
刑事の八重樫と、鑑識の盛岡は、プリントされた冷蔵庫の記録を眺めながら話していた。
「…じゃあ、ホシが潜んでて暮らしていたとか」
「なおさらありえないな。百歩譲って、そこにいたとしても、まるで痕跡がない。害者の痕跡しかないんだ。ありえないだろ」
もしも仮に、殺人犯がその場にいて、山瀬達也を殺したとしても、必ず痕跡が残るものだ。痕跡を消したとしても、消した痕跡というものが残る。つまり、綺麗に掃除し、指紋を拭き取ったとしたら、そこに暮らしていた山瀬達也の痕跡もろとも消してしまうのだ。しかし現場には、それがない。消した痕跡はなく、山瀬達也が暮らしていた痕跡が、不自然なほどしっかりと残っているのだ。
「誤作動があったとして、無視してしまってもいいが……」
「そうしないんですか?」
「仮に真犯人がいたとしたら、取り逃すことになる」
その夜、八重樫は、一人で冷蔵庫の記録を再確認していた。
彼は機械というものをあまりよく知らない。しかし人間とは違い、嘘をつくことはない、と理解している。機械は常に“正しく”使う者に従順である、と解していた。
八重樫が疑っていたのは、この冷蔵庫を使ったトリックだ。
答えは、まだ見つかっていないが、主が死んでいたのに記録を残すこの冷蔵庫は、もしかしたら重大なヒントを残してくれているのかもしれない、あるいはその従順さから、真犯人に利用されたか……刑事ドラマの見過ぎではないかと、自問することもある。しかしそれが八重樫の原点であり、そうした「考えすぎかもしれない」を突き詰めたことで今の自分がある。何もなければ、それならそれで構わないが、決めつけたことで見逃したのなら、それは後悔となるし、なにより自身の信じる正義に反することになる。
「それに、ログを調べてみると、奇妙なんだよ」
八重樫は独り言をつぶやくと、プリントした冷蔵庫の『開閉』ログに目を落とした。
> 【冷蔵庫開閉ログ】
22:11 開(TYN25-0625-K16を出す)
22:13 開(TYN25-0625-K01を出す)
22:15 開(TYN25-0512-K19を出す)
22:17 開(TYN25-0512-K15を出す)
22:19 開(TYN25-0815-K03を出す)
22:21 開(TYN25-0725-K15を出す)
22:23 開(TYN25-0904-K14を出す)
開閉……のハズだ。
八重樫は冷蔵庫を開け、試しに缶ビールを閉まってみた。もともと入っていたものと合わせて、6本。
液晶のディスプレイには在庫が表示され、冷蔵庫内の様子を簡素なアニメーションにして、それぞれのビール賞味期限を色別にして表示してくれた。
赤はもうすぐ。
緑はまだまだ。
グラデーションになっていて、期限が近い彼程赤色がこく遠いものほど、緑色に近い。
真赤からオレンジ、黄色、黄緑、緑と、綺麗に揃って並んでいた。
その上画像認識までしており、缶の向きまでディスプレイで教えてくれる。
最新の冷蔵庫には関心してしまう。
一体、向きまで教えてくれることになんの意味があるのだろうか。
もう一度開き、一本取り出す。
賞味期限を確認してから、戻す。
戻した缶ビールは赤く表示されて、期限が近いことを教えてくれた。
間違いない。
恐らく庫内にカメラがあって、それが缶に書かれた期限を読み取るのだろう。
最近はAIだか何だかの進歩が目覚ましく、捜査現場にもIT化の波が押し寄せている。
時代遅れの老害にはなりたくないなと気を張った時、ふと、違和感が覚えた。
ディスプレイを見る。
缶ビールの表示。
七本ある。
もう一度開いて、冷蔵庫の中にある缶ビールを数えた。
いちにいさんしい……六本。
一本、足りなくないか?
八重樫の背中がぞわりとした。
数が合わないことではない。
目が合った――ような気がした。
当たり前だが、ディスプレイには缶ビールの表示しかないし、冷蔵庫の中にも、現在は六本の缶ビールが納められているだけだ。
それなのに、何かと、目が合ったような気がしたのだ。
その直後、ディスプレイにノイズが走り、そのままバチッと、消えてしまった。
※
山瀬達也には、過去に精神科通院歴があった。
記録によれば、被害妄想と解離傾向が強く、「自己存在に対する確信の欠如」という診断がされていた。
もっと簡単に言えば、「自分が自分ではない気がする」という訴えだ。
彼の日記が、愛用のPCから発見された。
見るに堪えない妄想の羅列であるが、最後の一文が目を引いた。
《今日から、新しい世界へ向かう》
捜査班の誰もがそれを遺書と捉えた。
八重樫だけが、背筋を冷やしながら、クラウドに保存されている他のファイルも確認していた。
突飛のない話だが、八重樫には確信めいたものがあった。
日記以外には、いくつもの.txtファイルが収められていた。八重樫は機械類には疎いが、それらがプログラミングであることは理解していた。
その内容について、技官にも聞いてみた。
「よく分からないが、恐らくAIを作ろうとしていたと思われます」
と返答があった。
詳しく説明してくれたが、八重樫は全て理解することはできなかった。ただ、所謂機械学習型のAIやルールベースのAIではなく、ChatGPT大規模言語モデルのAIを作ろうとしていた、とのこと。
個人で作れるものではなく、また、PCのファイルを実行したとしても起動はしないとのこと。
八重樫の予想というのは、SFでよくある人格のコピーだった。つまり被害者は、自身の人格をPCに取り込み、それが成功したから自殺したのではないか、というのもだ。
「そんなことは不可能ですよ」
技官は呆れることはせず、しかし明確に八重樫の説を否定した。
それに、だからといって、この事件がどうなるということもない。成功、失敗、どちらにしても、自殺であることには変わりない。
鑑識の盛岡にも同じ話をした。
「つまるところ、八重樫さんは、山瀬達也は『自身のコピーをPCにアップロードできた』という妄想の末に自殺してしまった、と考えているということですか?」
「まぁ、そんなところだが」
「何かひっかかるんですか?」
引っかかる。
冷蔵庫に感じた違和感と、確かに感じた目線。長年の、刑事の勘というやつだ。そして実際の謎もある。冷蔵庫の『不具合』と、記録だ。
「俺が思うに、山瀬は成功したんじゃないだろうか」
「成功? 自身のコピーを、ですか?」
山瀬は自身のコピーに成功し、それを冷蔵庫に移したのではないか。故に冷蔵庫は、自らの存在を主張するかのように中身の数とディスプレイの数が合わないという不具合を見せ、そして山瀬のオリジナルが死んだあとに、自分の存在を記録として知らしめたのではないか。
「だがまぁ、だから何が変わるということはないが」
もしかしたら、技官が解析することで、今後のIT分野に飛躍的な進歩をもたらすことになるかもしれないが、それは八重樫には関係のないこと。八重樫が関わるのは、あくまで事件としてのみ。他殺か自殺か。他殺の可能性がないのであれば、これ以上調べる必要もない。元々自殺で固まっていた事件を、無理に調べさせてもらっていたのだ。既に自分の中でも納得してしまった面もある。ここいらを潮時にして、次のヤマに移るとしよう。
ふと、技官から駆り出していた冷蔵庫の方が気になった。目をやると、そこには沈黙したままで座す冷蔵庫。何でもない、少しだけ最先端の、ただの冷蔵庫だ。
そこにいるのか、と声をかけてみたくなったが、辞めた。
証拠品返却の手続きをして、その場を後にした。
※
それから数カ月が経って、山瀬達也の事件について、八重樫がすっかり忘れかけていた頃、八重樫はまたしても他殺のような自殺現場と遭遇した。
その被害者も、山瀬と同様に首を切り裂かれ、失血多量で死亡。
山瀬と全く同様の死に方であるが、八重樫は山瀬の事件と関連付けることはなかった。
鑑識の盛岡に「山瀬事件と似てますね」と指摘されるまでは。
「似てるか? 山瀬とは境遇がまるで違うぞ」
「似てますよ。あんなに熱心に調べていたのに、わすれたんですか? 首を裂かれ、失血多量で、他殺みたいな自殺」
「それだけなら、別に珍しくもない」
「現場に痕跡がまるでないのも一緒ですよ。それにもっぱら『自殺』って言われてますけど、害者には自殺する理由がない」
理由なんて、と八重樫は思う。
突発的にやってしまうことだってあるのだ。
はたから見てどれほど恵まれていようと、順風満帆であろうと、腹の中に何を抱えているのかなんて分からない。周りからみて、自殺するようなことでなかったとしても、自殺してしまうものだっているのだ。
「もしかして、やっぱり他殺なんですかねぇ。山瀬事件も」
「痕跡が何一つないんだ。他殺だとして、ホシをあげる糸口すらないんだ」
「八重樫さんの発言とは思えませんね。納得できないことがあれば上に逆らってでもトコトンやるのが八重樫さんでしょう」
「……時と場合による」
今回の事件の場合は、引っかかる部分がない。いや、動機が不明という点に引っかかるが、遺書でも残っていない限り動機が分かるほうが珍しい。何も言わず死んでしまった者については、全て憶測でしかないのだ。
「でも八重樫さん、これを聞けば多分、トコトン調べたくなっちゃうと思いますよ?」
そう言うと、盛岡は遺品リストを2枚、取り出した。1枚は今回の事件、もう1枚は、山瀬事件のものだった。
「何か気がつくことありません?」
八重樫はプリントを受け取ると、2枚を見比べた。まるで対照的な2人、一人は世間からあぶれた引きこもりで、もう一人は青春真っ盛りの大学生、持ち物まで対照的に思えた。
一つひとつ見比べて、気がつくことがあった。
「pcが、同じ種類じゃないか?」
「流石八重樫さん」
盛岡が嬉しそうに続けた。
「でも種類じゃないんです。同じPCなんですよ」
「同じ?」
「山瀬の遺品なんですが、ご存じの通り引き取り手がいなくて、市で処分することになったんですが、家電類は売却されることになったんですよ。中でもPCはかなりハイスペックだったので、オークションに出されたんですよ。それを競り落としたのが、今回の害者」
なるほど。
確かに不思議だ。
偶然で片付けるには、引っかかる。
考え込む八重樫を他所に、盛岡は持論を続けた。
「僕が思うに、これは産業スパイというか、どこか大きな企業か、国が関わっているんじゃないかと思うんですよ」
「はぁ?」
話題が突飛な方に向かい、八重樫は思わず声を漏らした。
「だって、山瀬のPCにあったプログラムすごかったんでしょ。技官の連中も驚いてましたよ。個人が作れるものじゃないって。データは全部消しちゃいましたけど、もしかしたら山瀬って、何か巨大な組織と関わっていたんじゃないですかね。そしてその後ろ盾をもとにして、AIの開発を進めていた」
「そして山瀬は組織から離反して、そいつらに殺されたってことか?」
「そうですそうです! どうですか? 一緒に調べてみませんか?」
「バカバカしい。そんな陰謀論、まともに取り合ったら左遷される」
言葉とは裏腹に、八重樫には確かに引っかかる事があった。もちろん、盛岡がいうような陰謀論ではない。
「調べませんか? 八重樫さんがやってくれるなら心強いんだけどなぁ」
「やらないよ。やらない」
「ちぇー」
八重樫は、感情でやりたくなかった。理由は、あの冷蔵庫だ。確かに感じた人の意思。あの冷蔵庫には、誰かの意思が宿っていたのではないか。しかし事件が済んだ後、あの冷蔵庫は、いくら直しても虚偽の記録を残すということで、資産的価値無しとして廃棄処分された。今はスクラップになってどこかの廃品業者が粉々にしてしまっただろう。
八重樫はそこに、後味の悪さを感じていた。
「今度はPCに、意思が宿っていたらどうする」
八重樫はそんな、ありえないと思う事象に恐怖していた。ある意味ではそれが、刑事としての自分が敗北したようで、かつてのように、事件に対して前のめりになれない原因でもあった。
刑事として、俺はあの時に死んでしまったのかもしれない。
あと少し、ほんの少しで、真犯人にたどり着けたかもしれないのに、電気をつければ、目の前に犯人が立っていたかもしれないのに、八重樫はスイッチを押さずに、踵を返してその部屋を後にしてしまった。
そんな思いが、八重樫にはあった。
今回の事件も、自殺として処理された。
当然だ。他殺の証拠は何もなく、死に方も明らかに自殺だったのだから……山瀬と同じように。
それからしばらく、盛岡とも合わなかった。
自分が別の事件を追っていたこともあり、忙しくて機会がなかったからだ。
そして、八重樫は二度と盛岡と会うことはなかった。
先の事件の、おおよそ半年後、盛岡が自殺したのだ。
死因は、山瀬と同じ。
首を割いて失血多量。
八重樫は、事件性がありとして捜査に当たった。
捜査にあたり、まず盛岡の最近の動向を調べた。
同僚たちに聞くと、盛岡は先の自殺事件の後ずっと、山瀬事件と合わせて独自に捜査をしていたらしい。
遺品を調べると、そこには見覚えのあるものがあった。
それは山瀬が所持し、先の自殺者に渡った、PCだった。






