3.翌朝──“現実”と“花束”
「──お金が、ない」
机の上に広げた帳簿を前に、私は頭を抱えた。
金貨の音すら立てたくないような静寂の中、ぺら、とページをめくるたびに現れるのは、減る一方の収支、滞る納入、そして次々に赤く染められていく貸付記録。
「あのクソ高い舞踏会用のドレスさえなければ……」
そう呟いたところで、意味などなかった。
“見せかけ”のための衣装も、笑顔も、すべて必要経費だった。
あの夜会に出なければ、私は「終わった名家の女」として完全に見限られていたのだから。
──カサ。
帳簿の下から、一枚の紙片がこぼれ落ちた。
『税務官から再査定要請。領地収益の低下について説明責任を求む』
「……はあ」
思わずため息が漏れる。
(終わってる。ほんとに終わってる……)
背もたれに体を預け、天井を仰いだ瞬間。
「アレシア様、荷物が届いております」
ノックもそこそこに、侍女の声が廊下越しに届いた。
「今それどころじゃないわよ」
「……いえ、その、バレンツ侯爵家の紋章が──」
「…………」
嫌な予感しかしなかった。
仕方なく部屋の扉を開けると、そこには──
見上げるほど巨大な花束が、白衣の召使いに抱えられて立っていた。
真紅の薔薇に、白いリリィ、青のラナンキュラス。
なんなのこれは、仮装舞踏会か何か?
「……どこに飾れと」
花瓶どころか、屋敷の床が花弁で埋まりそうだった。
「カードが添えられていました」
そう言って手渡された一枚の紙。飾り気のない文字が走っていた。
『昨夜は失礼した。君の判断を、心より待っている。──ジーク=バレンツ』
私はカードを読み、そして──ため息をついた。
「……本気、なの?」
気味が悪い、と言ってしまえば簡単だった。
けれど、ジークの“求婚”がただの取引ではなかったとしたら?
「……まさかね」
私は窓辺に立ち、花束を遠巻きに見つめた。
香りが鼻をくすぐる。美しい。憎たらしいほどに。
あの夜、あの男が言った。
『帝国一の悪役令嬢、アレシア=ヴァレリア。君の物語は、ここで“終わる”か、“始まる”か──僕次第だ』
その言葉が、今も耳の奥にこびりついている。
(──ああもう、鬱陶しい)
感情なんて、家計簿に記録できない。
けれど私の心は、明らかに動いていた。
それが不快だった。
「……こんなもので揺れるほど、私は安い女じゃない」
けれどその一方で、花束を捨てることもできずにいる自分が──
何より、情けなかった。