2.夜会にて──バレンツ侯爵令息との押し問答
帝都の中心にそびえる貴族会館──
その大広間には、宝石のようにきらめく灯と、貴族たちの笑い声が渦巻いていた。
音楽、舞踏、香水、そして陰謀。
私はその場でひときわ目立つ、いや“狙われている”存在だった。
「……ずいぶんと華やかに装ってきたじゃないか、アレシア嬢」
声をかけてきたのは、バレンツ侯爵家の若き当主、ジーク=バレンツ。
表面だけを見れば、教養に富んだ立ち振る舞い。けれど、その笑みの奥に潜む狡猾さは、社交界でも有名だ。
「そちらこそ、獲物でも狩りに?」
「ふふ、それが今宵の“目的”と見抜いてるなら話が早い。私はきみを迎えに来た」
ジークは手を差し出す。私は手袋越しにそれを避け、冷たく返した。
「また、その話? 三度目ですけど?」
「四度目だったと思うけどな。……何度でも言うよ、君さえ来れば──帝国は変わる」
「変わる? あなたの都合のいいように、でしょ」
「君を軽んじているわけじゃない。君の才は帝国に必要だ。僕はそれを理解している、他の誰よりも──」
「必要なのは私じゃなくて、私の“肩書き”と“顔”でしょ。いっそ看板だけ盗んでいけば?」
周囲の視線が集まり始める。だがジークは動じない。むしろ愉快そうに笑う。
「まさか。君じゃなきゃ意味がない。……僕はね、“アレシア=ヴァレリア”その人に興味があるんだ」
「うれしいわ。初めて会った男に“買いたい”と言われるのも。……何度目かもしれないけど」
「買いたい、なんてとんでもない。──君を、“迎えたい”だけさ。妻として、帝国の未来の女王として」
ぐっと近づいてくるその目には、薄く光る執着の色。
「拒まれるのは構わない。けどね──君にはもう、他に選択肢なんて残ってないんだろ?」
この男は知っている。家の財政難も、両親の放蕩も、反皇室派の圧力も。
私の背を押してくるのは、言葉の優しさではなく、背後に控えた脅迫だった。
「……それが求婚の言葉? お見事ね、バレンツ侯」
私は笑う。見下すように、冷ややかに。
「お前さえ嫁に来れば、帝国一の美貌と名門の名を手にできる」
「君の力で、もっと大きな国が築ける」
ジーク=バレンツ。
反皇室派の筆頭貴族。冷静で、計算高く、そして今──私の人生を“買おう”としている男。
「買われる趣味はないのだけれど」
私は皮肉で返す。だが、声の奥にある焦りは、彼にもきっと伝わっていた。
「買うつもりなどないさ。──迎えたいだけだよ。君を、妻として」
「ふぅん。じゃあ、私はいくらで?」
「冗談はやめよう。君もわかってるだろう。もう、他に逃げ場などない」
耳元で囁かれる声に、私はぞわりと背筋を撫でられる感覚を覚える。
「家は、傾きかけている。債務整理にも限界がある。商会は君に見切りをつけ始めているし、税官僚は君の帳簿の“特殊な補填”に気づいている」
「……それで? あなたに嫁げば全部、丸く収まるとでも?」
「当然だろう。僕の後ろには、帝国でもっとも強い派閥がある。君の家など、書類一枚で延命させてやれる」
それは救済ではない。ただの“服従”だった。
「……その手には乗らないわ」
「口ではそう言うが、君の目は正直だ。いま君がここで僕を拒めば、君の家は明日にも潰されるだろう」
ジークは一歩近づく。私は思わず一歩、後ずさる。
「……っ」
周囲の視線が私を見ている。美しい装飾に囲まれた“舞踏会”の真ん中で、私は静かに追い詰められていた。
「帝国一の悪役令嬢、アレシア=ヴァレリア。君の物語は、ここで“終わる”か、“始まる”か──僕次第だ」
ぐっと、手首を掴まれそうになった、そのとき。
「……ジーク=バレンツ侯」
横から、涼やかな声が割り込んだ。
振り返れば、壁際にいた青年が、いつの間にかすぐ近くに立っていた。
仮面のように整った顔立ち、社交界で“顔だけの男”と揶揄される彼──レオン。
その目は、笑っている。けれど、どこか冷たい。
「レディに手を上げるようなまねは、少し見苦しいのでは?」
「……これは我々の問題だ。君には関係ない」
「ふむ。そうかもしれませんね。──けれど、困っているレディを見て黙っているほど、私は冷血ではないので」
「君には黙っていてもらいたい」
「なら、“本当に困っていないか”確認させてもらいましょうか」
そう言って、レオンは私にだけ聞こえる声で囁いた。
「──逃げるなら、今だ」
私は、何も言えなかった。
ほんの一瞬、差し出された手に心が揺れたのは事実だった。
けれど──現実は、甘くなかった。
(……無理よ。あなたに何ができるというの?)
私は視線を逸らし、微笑んだ。
「ありがとう。でも、大丈夫よ」
「──そうですか」
レオンの表情が、一瞬だけ曇った。
そして私は、ジークに向き直る。
「もう一度だけ、考えさせて」
「──それでいい」
ジークは満足げに笑い、踵を返して去っていった。
私は一人、その場に残された。
逃げ場のない現実と──なぜか心をざわつかせる、“顔だけの男”の余韻を残して。