23 最後の挨拶
ネオ東京湾岸──向こう側にうっすら見える工業地帯は浦安方面か。夕闇のなかにうかぶ工場やプラントは、装飾をいっさい排除し機能性のみを追求した造形のはずなのに、どういうわけだか幻想的な美しさがある。
宵闇がせまっている。
ネオ東京の湾岸エリアにある海浜公園のひらけた場所に本多は立っていた。
公園に植えられた木々の向こう側にマシロ・コーポレーションの本社ビルがそびえ立っている。世界一の企業にふさわしい巨大さでその威容をしめしていた。
スーツ姿の初老の男がこちらにむかって歩いてくるのがみえた。一人だ。木の陰に護衛をしのばせているのだろうか。いや、それはないだろう。なぜなら当人にとってだれにも聞かれたくない話のはずだからだ。
この場所を指定してきたのもあちらだ。本多を社内に通さなかったのは、本多と接触することを社内の人間にしられたくなかったからだろう。
本多も男に歩みよった。五メートルほどの間合いでおたがいに足を止めた。
「わざわざご足労いただきすみません、筒井さんですね。私は先ほどご連絡差し上げた探偵の本多と申します」
「手短におねがいする。私も暇ではないのでね」
真城コウタロウの筆頭秘書、筒井の年齢は五十代半ばくらいのはずだが、頭髪はすべて白く、頬はこけ、顔色もわるく、まるで病気を患っている老人のようだった。
筒井はつづけた。
「真城シュリ氏に関する話だということだが、なぜ私に? 親族でもないのに」
筒井の表情にわずかな緊張がみてとれた。
「ええ。筒井さんは生前のシュリさんをなにかと気にかけていたようでしたので。定期的にシュリさんと連絡をとっていましたね」
「秘書業務の一環です。彼女の父親は多忙な人間なので」
「最近のシュリさんに変わったようすはありませんでしたか。なにかに怯えていたり、精神的に不安定だったりは」
「いいえ」
「トラブルをかかえているとか聞いていませんか」
「さあ、とくに」
「率直にいいますと、今回の殺人事件の真犯人がまだみつかっていません」
「犯人はマフィアと聞いていますが。実際、我が社は身代金要求の連絡をうけてます」
「ええ。そのマフィアは『コンダル』という名前の組織です。しかし実際には、シュリさんの殺害依頼をコンダルにした人物がいるんです。身代金要求は完全にコンダルの独断でおこなわれたもので、奴らの暴走です」
「殺害依頼? それは犯人が言っているだけの責任逃れの嘘でしょう。そんな弁明は信用するに値しない」
「いえいえ、そうともいえないんですよ。事件が発覚した際、マシロ・コーポレーション側は迅速に行動しています。コンダルから連絡をうけてすぐに捜査機関をうごかしてシュリさんの身元捜索と犯人特定の捜査を開始しています。そして、それと呼応するようにコンダルの構成員が次々と殺害されていく事件が発生しています。これはおそらく、真相を暴かれることを怖れた真犯人の口封じ工作だろうと私はかんがえています」
筒井は本多の推理を鼻で笑った。
「ハハハ、それはすこし妄想が過ぎやしませんか。たんに暴力団同士の抗争とかんがえるほうが合理的でしょう。そもそも、真犯人に暴力団員たちを殺せるほどの力があるならば、殺害を依頼するなどとまわりくどいことはせず、直接手を下すのでは」
「たしかに」本多は認めた。「私もその点を不審におもっています。コンダルの生き残り──一人だけ生き残りました──の話によると依頼要件のなかに、シュリさんを『怖がらせないでほしい』とか『苦しませないでほしい』というものが含まれていたそうです。おかしいですよね。殺しを依頼しておいてそんなことをいうのは」
「……」
「失礼ですが、筒井さんには娘さんがいらっしゃったそうですね。残念ながら病気で亡くしておられる」
「……ええ」
筒井は娘のことにふれたくなさそうだった。
「娘さんとシュリさんはご友人だったとか。シュリさんはあなたとも顔見知りでしたね」
「そうです」
「しかし先ほどあなたはそのことについて言及しませんでしたね。シュリさんとは小さな頃からの知り合いであることをあえて隠すかのようでしたが」
「そんなつもりはない。いったい君はなにがいいたいのかね。はっきりいったらどうだ」
筒井は苛立ちはじめた。
「筒井さん、私はあなたが真城シュリ殺害の真犯人だとかんがえています」
「フン、なにを言いだすかとおもえば」
本多はつづける。
「あなたはなんらかの理由で真城シュリの殺害を計画した。しかし小さいころから知っているシュリさんを自分の手で殺すことに抵抗があったんでしょう、あなたは外部に殺害依頼することにした。それがコンダルです。コンダルを選んだ理由は、できたばかりの規模も小さい組織だから扱い易いだろうと、かんがえたのかもしれません。コンダルにシュリさんを無傷で殺害するように依頼した。あの廃ビルに遺体保管用の冷凍庫を用意したのもあなたかもしれない。しかしここで誤算があった。コンダルがシュリさんの身元を突き止め、よりにもよってマシロ・コーポをゆする暴挙にでた。焦ったあなたはプロの殺し屋にコンダル殲滅を命じた。ま、私の推理はざっとこんなかんじです。いかがですか」
「はッ」筒井は鼻で笑った。「なにをいい出すかとおもえば……貴様、覚悟はできてるんだろうな。名誉棄損で訴えるぞ」
本多は無視した。
「じつはもう一点、この事件で不可解なことがあるんです。それはシュリさんが新宿地下街にあるコンダルの拠点に自らおもむいたことです。まるで自分から罠に飛びこむかのように。おそらく誰かから指示されてその場所に行ったんでしょう。しかしシュリさんの端末にはそのような形跡はありませんでした。同様にコンダルの端末にも殺害を依頼された形跡はありませんでした」
「フン。だったら──」
「時限爆弾メール」
「……なに」
「時限爆弾メールです。ご存知ですよね」
筒井の表情はより一層険しいものになった。
「時限爆弾のように一定時間が経過すると送信も受信も跡形もなく消滅してしまうメールプログラムだそうです。そしてそれを復元するのは不可能とされています」
「だからなんだ。さっきから何の話をしている。下らん問答をするつもりなら私は失礼する」
そう言って筒井は踵を返した。
「しかし不可能なんですよ、シミひとつ残さずきれいに消し去ることなんて。どんなものでも」
筒井はかまわず歩を進めた。
「ここに復元したメールがあります。コンダルの端末にのこっていたのは、あなたからコンダルに宛てたものだ。それにシュリさんの端末からは新宿地下街にある『喫茶わかば』へ行くようにうながす内容のものがありました」
筒井は立ち止まった。
「偽造だ。そんなものいくらでも偽造できる。証拠にならん」
「いいえ、これはれっきとした法的証拠になり得ます」
筒井はふりむくと侮蔑の表情を本多にむけた。
「そうか。お前、私をゆする気だな。逆にお前の探偵免許を剥奪してやる。私にはそれだけの力がある」
「それはどうかな。あなたはマシロ・コーポレーションの創業メンバーであるにも関わらずいままで重要なポストについていない。そんなあなたに力があるでしょうか」
「なんだと」
怒りで筒井の顔にみるみる血がのぼっていく。
「癪に障ったのならすみません。しかし実際、いまだにあなたは真城コウタロウの秘書の一人にすぎない。随分と軽んじられてるようだ」
「貴様──」筒井の体が怒りで震えていた。
「それが彼女を殺した動機か。冷遇されてきたことへの復讐であの子を殺したのか」いつの間にか本多も感情的になっていた。「それなら真城コウタロウに直接復讐するばいいだろ。なぜその子供を標的にする。しかも自分の手を汚さないやり方で! この卑怯者が!」
「お前になにがわかるというのだ! アイツは私の娘を侮辱した! 私の娘の死を!」
筒井は涙をながしていた。
「娘の危篤のときに立ち会うことをアイツは許してくれなかった。娘との別れすらアイツは些末なことだと言った。会社に尽くしてきたことなどどうでもいい。アイツに俺とおなじ思いをさせてやりたかった。なのにアイツは──アイツは実の子が死んだっていうのに涙ひとつながさなかった。いや、表情ひとつうごかさなかった。なんにも感じてなかったよ。娘が死んでもな! ……ハハ、アイツには人間の感情ってもんがないんだよ。アイツは人間じゃない。アハ、アハハハハハ」
筒井は狂ったように高笑いをしつづけた。
「叔父様」と少女の声。
聞き覚えのある声だった。筒井は我に返ると声の主をみた。
「……シュリ、ちゃん」
真城シュリが立っていた。
「バッ、なんで出てくるんだ」
本多はシュリに駆け寄った。
本多が「犯人逮捕のときが一番危険だからついてくるな」といったのに、シュリは頑としてきかず、無理矢理ついてきたのだった。
「出てくるなといったはずだ」本多は本気で怒っていた。
「すいません。でも……」
「本当に……シュリちゃん、なのか……すまない、シュリちゃん……本当にすまなかった」
筒井がふらふらと近づいてくる。右手にはいつの間にかリボルバーが握られていた。
本多もM1911を抜いて照準を筒井の胸部に合わせた。
「止まれ!」
筒井はすでに正常な状態ではなかった。
「すまない……もう無理だ。あのときに死んでおくべきだった。ミカが死んだあのときに……あのときから俺は死人同然だった……俺が死んでいればシュリちゃんが死ぬこともなかった……」
筒井は自分のこめかみにリボルバーの銃口を突きつけた。自殺するつもりだ。
「待って!」シュリが叫んだ。
本多がM1911のトリガーを引こうとした瞬間、筒井の体が靄のような、薄い膜のようなものに、つつまれた。膜は仄かに発光していた。よくみるとそれは小さな光の粒の集合体だった。筒井のまわりの空間が宵闇のなかに浮かび上がる。
「ミカちゃん……」シュリがつぶやく。
「え?」と本多。
「あれはミカちゃんです。叔父様の亡くなった娘さんです」
筒井もそれがわかったようだった。
「ミカ……なのか……」
こめかみに押し当てていたリボルバーが筒井の手から落ちた。筒井は崩れるように地面に両手をついた。
筒井が纏っていた光の膜が消えてなくなると、慟哭だけがその場にのこった。
ネオ東京湾岸は完全に宵闇につつまれた。