1 奇妙な依頼者①
旧市街・神田神保町。
いまだ古い町並みが残る地域──といえば聞こえはいいが、現実は、いまにも崩れ落ちそうな化石級の建物が建ち並ぶ、再開発計画から取り残された地区だ。新宿や秋葉原といった都心とは違い、十~百メートルほどの低いビルしかなく、『多層構造』でもないので、空を遮るものがない。
靖国通りという、かつて国道だった大きな道路から一本入った小さな路地には、築百年を超えるビルが両脇にずらりと並んでいる。ビルの窓に貼られた広告や突出し看板は、日本語、英語、中国語、韓国語、タイ語、ベトナム語などで賑やかだ。
なかでもひと際オンボロの雑居ビルが一棟あった。ビルは三階建てで、一階はなにやら飲食店っぽいが、シャッターに描かれたスプレーアート(というただの落書き)は何度も上書きされた痕があり、だいぶ長いことシャッターは下ろされたままのようだった。
シャッター横に小さな入口があり、その奥に上の階につづく階段があった。二階の一室、木製ドアの上部に磨りガラスがはめこんであり、そこに澄ました明朝体で『本多探偵事務所』とあった。
部屋の中は、事務所スペースとトイレと給湯室といった簡単な造り。電灯はつけられておらず、窓から差す光のなかに埃がゆらゆらと舞っているのが見える。窓際にデスクがひとつ、部屋の中央に置かれた応接用のテーブルとソファー、その他に物が雑然と置かれており全体的にだらしない印象を受ける。
応接用のテーブルの上には、中身が三分の一になったウイスキーの瓶と大量のビールの空き缶が並べられていた。
壁に探偵組合が発行した証明書が飾られてある。この証明書が正統な探偵である証だ。
二十一世紀の二度の世界大戦を経て、〝国家〟や〝政府〟というシステムは廃れ、いまでは残り滓程度しか存在していない。専業政治家は絶滅し、政府が担っていた機能はすべて市場原理に取って代わられた。
警察が行っていたサービスの大半は民間警備会社が供給するようになっていたが、犯罪捜査や被疑者捜索だけは〝探偵〟の職分だった。
探偵も千差万別で、千人規模の大手事務所もあれば個人事業主として一人でやっているところもある。そして、ここ『本多探偵事務所』は、数多ある私立探偵事務所のなかでもダントツの零細だった。
ピンポンピンポンピンポン……
チャイムが連打される。
ソファーの上、影が蠢いた。それは、冬眠を邪魔された熊のような緩慢な動きで身体を起こそうとして、ソファーから転落した。転落の拍子にテーブルに置いてあった空き缶を盛大に倒して床にぶちまけた。
「いてえ……」
ピンポンピンポンピンポン……
甲高いチャイムの音が二日酔いの頭にガンガン響く。
「はーい! はいはいはい! いま開けますよ!」
声が届いたのか、チャイムの連打が止まった。
この事務所の主である本多ミチロウは、テーブルに右手をついてなんとか立ち上がった。その右手は機械剥き出しの義手だった。Tシャツの袖から伸びた本多の右腕は、上腕の中間から先が機械化されていた。
生身の左手首に巻かれた軍用のゴツい腕時計を見る。正午をとっくに過ぎていた。
本多の無精髭面には日頃の不摂生が見てとれた。三十代半ばには見えないほどやつれていて、若々しさの欠片もない。
反面、Tシャツの下の胸板は厚く、逞しかった。首から下の肉体は引き締まっており、かなり身体鍛錬を積んできであろうことがわかる。
本多はふらふらした足取りで事務所入口へ向かった。
木製のドアを開けると、そこに一人の女が立っていた。いや、「女」というより「少女」といったほうがいいかもしれない。本多には十代半ばくらいに見えた。
身長は一六〇センチ前後といったところ、ダボっとしたオーバーサイズのTシャツと黒のスリムジーンズが彼女をさらに幼く見せていた。
「こんにちわ、本多探偵さんですね。お仕事の依頼にきました」
少女はハキハキと話した。
「……はい?」
本多は間の抜けた声で言った。
玄関前に少女を待たせて、本多は部屋を大急ぎで片付けた。床に散らばった空き缶を拾い集め、脱ぎっぱなしになっていた衣服類をまとめて給湯室に投げ入れた。
まさか依頼者だったとは──本多にとってあんなに若い依頼者はこの仕事をして以来はじめてのことだった。
本多は最後に寝癖のついた髪を手で撫でつけ、再度、玄関のドアを開けた。
少女は変わらず、さっきと同じ姿勢のまま、人懐こい笑みを口元にたたえて、立っていた。
少女を応接用のソファーに座らせた。
カツン、コロコロコロ……
向かい合わせのソファーの間に置かれたテーブルの下で硬い音がした。ソファーに腰かけたとき少女のつま先に何かがぶつかったらしい。少女は身を屈めてテーブルの下を覗いた。それから手を伸ばし何かを掴むと、それを本多に見せた。
「あっ」
ビールの空き缶だった。
本多は慌てて少女の手から空き缶を奪い取るとゴミ箱に捨てた。
「……すみません」
本多は若干気まずいながらも少女の向かいのソファーに座った。
本多は思い出したようにズボンのポケットをまさぐった。尻のポケットに目当てのものがあった。名刺だ。
「本多といいます。失礼ですがお名前を聞いてもよろしいですか」
少女は名刺を受け取った。名刺の角が折れ曲がっていた。
「真城シュリといいます。よろしくお願いします」
「よろしくお願いします。それで、今日はどういったご用件で?」
「はい。人探しをお願いしたくて」
「人探し、ですか。で、探してほしい人というのは?」
「はい。私です」
本多はシュリの言葉を理解できなかった。
「……は?」
「探してほしいのは、私です。もっと正確に言うと、私の体を探してください」