18 第二ラウンド
本多たちは停止しているエスカレーターをなかばまで降りた。
まず目に飛びこんできたのは、安喰の高級地上車がフェンス柵を突き破り、シャッターも突き破り、廃ビルの一階フロアに進入して、鉄筋コンクリート構造の柱に衝突した状態で停まっていた光景だった。
「なにごとやッ」安喰が叫ぶ。
さっきの衝撃で天井や壁の一部が崩れ落ち、荒れていたフロアは瓦礫と舞い上がった埃でさらにひどい状態になっていた。
「蒲田ァ! 大丈夫かァ!」
安喰が車体の前部が潰れて蛇腹のようになっている車にかけよろうとするも、「待て、安喰」と本多に肩をつかまれた。
本多は一階フロアの一点をにらみつけていた。本多の視線を追うと、天井が崩落してできた瓦礫の山があった。車から二十メートルほど離れた場所だ。
その瓦礫の山がグラッと動いたかとおもうと、ガラガラと崩れ、なかから人影があらわれた。その人影は黒のボディースーツについた埃を払い落としながら「あーあ、やってくれんじゃん」とつぶやいた。
銀色の長髪を鞭のようにしならせて後ろに跳ね上げる。氷のような冷たい眼光が本多たちをとらえた。
「あら、探偵さん、また会っちゃったネ。私ら縁があるのかしら、フフフ。まあ、そんなことより──」殺し屋の目がより鋭くなった。「後ろのそいつ、キム・ソンギュンだろ。私、そいつに用があるんだよね」
「コンダルを殺してまわってんのは、お前なのか」本多が訊いた。
「うん、そうだよ。そいつで最後なんだ」
本多の背後でキムが転げながらエスカレーターをかけあがる。
「キム! いくな!」
本多の制止を無視してキムは上階へ逃げた。
「フフ、逃がさないよん」
殺し屋は二、三メートル跳躍して瓦礫のなかからぬけ出すと、空中で華麗に回転し、着地した。そしてジャンプブーツの踵をカツンカツンと鳴らしながら無防備に近づいてきた。その顔にはさっきから不気味な笑みが貼りついている。まるで殺しをたのしんでいるかのようだ。
「安喰。俺はキムを追う。お前はシュリたちをたのむ」
「わかった」
本多は腰からM1911をぬくと、殺し屋の頭に照準をあわせ、二発撃った。しかし信じられない速さで殺し屋は弾丸を二発とも避けた。
その隙に安喰がエスカレーターをかけ下りた。
本多と安喰はここで二手にわかれた。
安喰はエスカレーターを降りて一階フロアに立った。殺し屋の関心はやはりキムだけに向いていて、こちらは眼中にないようだ。安喰は車へ走った。
運転席をのぞくと蒲田が膨らんだエアバッグに顔をうずめて気を失っていた。
「蒲田ァ!」
「う……うぅ」
「よしッ。生きとるな」次に安喰は後部座席をみた。「シュリちゃん! だいじょぶか!」
シュリはおでこをさすりながら、
「大丈夫です」
と言った。
後部座席にはエアバッグもないし、シュリはシートベルトもしてなかった。
「丈夫な子やで、ホンマに」
安喰は感心した。
うしろを振り返ると殺し屋の姿はもうなかった。
「とりあえず建物の外へ出よう」と後部座席のドアを開けた。
それから運転席の歪んだドアをなんとかこじ開けて、中から蒲田をひっぱり出した。
本多はエスカレーターをかけあがり三階フロアに出た。
「キム・ソンギュン! 俺から離れるな! 殺されるぞ!」
しかし返事はない。
どこに隠れた。それとも上の階へいけば逃げられるルートがあるのか? なんにしても殺し屋より先にキム・ソンギュンをみつけなければならない。さもないと、シュリの死の真実が闇に葬られてしまう──本多は焦っていた。
下の階を見下ろしてみるが殺し屋の姿がない。それがさらに本多を焦らせた。
「……歩け、ます」
蒲田はまだ意識が朦朧としていたが、安喰とシュリの肩を借りてなんとか歩いて外に出ることができた。安喰は蒲田を横にし、端末を取り出し、怒鳴り、通話を切った。
シュリは恐る恐る訊いた。
「本多さんは……」
「殺し屋が、キムを仕留めにきたんや。ミッチャンがそれを防ごうとしてる。いま増援をよんだ。それまで蒲田をみていてくれるかの、シュリちゃん。ワシはミッチャンの助太刀にいく」
「あ……」シュリはなにをいうべきかわからなかった。
「駄目……です」蒲田が細い声で言った。「親父に万一が……あったらどうするんですか」
「蒲田ァ、お前はなんもわかっとらんな。極道はなァ仲間を見捨てないもんや」
「親父……」
安喰はシュリにむかって自分の顔を指しながら、
「どや、シュリちゃん? ワシ、かっこええやろ」
と言った。
「え……あ……はい」
シュリは困惑を隠せなかった。
本多は五階にいた。
下の各フロアを隈なくさがしたが、キム・ソンギュンはみつからなかった。それに追ってきているはずの殺し屋の気配がまったくしないことが不気味だった。おそらく向こうはこちらの動きを把握してるだろう。まるで捕食者に狙われている気分だ。
安喰から借りたM1911を顔の前で構え、物陰などをすばやくクリアリングをしていく。
〈蜘蛛──〉
突然女の声がフロアに響いた。あの殺し屋の声だ。
〈この業界じゃそういう名前で通ってる──〉
声が妙に反響して相手の位置がつかめない。RDD(Reverb-Delay Device 残響遅延装置)か。
「……蜘蛛、か」
殺し屋の髪色と同じ銀色の糸でつむがれた蜘蛛の罠に嵌った獲物が、粘着性の糸が絡まって抜け出せず踠いているイメージが頭にうかんだ。そこに不敵な笑みを顔に貼りつけたあの女があらわれる。これから獲物を痛ぶれることがたのしみでしかたないといった笑みだ。
「……お前にピッタリの名前じゃないか」
本多は虚空にさけんだ。
〈ありがと──私も気に入ってる〉
視界の端に影がうごいた。銃をむけるも照準の先にはなにもいない。
〈さて探偵さん──第二ラウンド、はじめましょうよ〉
背後に強烈な殺気をかんじた。
本多はふり向きざまに胸の高さにかまえたM1911のトリガーを三回引いた。
至近距離だったため蜘蛛の頭部に一発と胸部に二発命中した。が、勢いはとまらない。蜘蛛は身を沈め、四足歩行の肉食獣のような姿勢で、本多の膝下に突進してきた。
蜘蛛はタックルが決まったと確信した。
実際タイミングも完璧だった。手が脚にかかった感触がたしかにあった。あとは引き倒すだけ──そのはずだった。
結果は、支えを失った蜘蛛が一人で前のめりに転んだような格好になった。
(まただ──なんなんだ? この捉えどころのない感覚は?)
タックルは潰され、蜘蛛の不利な体勢で寝技の攻防にもちこまれた。本多にバックをとられ、首に腕が巻きついてきた。極まる直前に蜘蛛は身体をすばやく回転させチョークスリーパーから逃げる。しかし本多は蜘蛛の回転の動きを利用して〝脇固め〟に移行し、左腕を極めた──はずだった。
蜘蛛の肩関節と肘関節は人間の可動域を超えてどこまでも曲がっていった。
「なッ」ありえない方向に関節が曲がり、本多は混乱した。
「残念。私に関節技は効かないよ」と蜘蛛はわらいながら空いている右腕で本多の背中にバックエルボーを突き刺さした。
「ぐぁ」
本多はたまらず腕をはなし床を転がった。
すかさず蜘蛛が襲いかかる。上体を大きく反り、右腕を振りかぶって反動をつけると、本多の顔面めがけて右拳を打ち下ろした。
本多は身をよじってそれを躱す。蜘蛛の拳が床を穿ち、コンクリートが爆ぜた。
蜘蛛が獰猛な獣のごとく追いかけてくる。
本多は仰向け状態から両脚をつかって蜘蛛をコントロールしようとするも、蜘蛛は力まかせにガードを潰して拳を打ち下ろしてきた。本多はそれを捌いたり受けたりしてなんとか直撃を避けていたが、蜘蛛の拳がかすっただけで皮膚は裂け、骨が軋んだ。
なかなか有効打が入らずシビレを切らした蜘蛛は腿のホルダーからコンバットナイフを抜き、本多の顔に突き立ててきた。
本多は両腕を交差してナイフを持つ蜘蛛の手首を抑えた。ナイフの切っ先が眉間の寸前で止まる。
蜘蛛は強引にナイフをそのまま押しこんできた。
(な、なんちゅうパワーだ)本多は驚嘆した。
このままでは鋭利な刃先が本多の眉間に沈んでいく未来しかみえない。
本多は両脚を蜘蛛の下半身にからめ、ナイフを持つ腕を引きこんだ。そこから脚をつかって蜘蛛を回転させると体を入れ替え馬乗り状態になった。
蜘蛛は「やだァん、強引だね。でもそうゆうの、きらいじゃないよ」と舌舐めずりをした。
蜘蛛はバックブリッジをして本多を振り落とそうとする。本多も脚をからめて抵抗した。だが信じがたいことに、蜘蛛はブリッジの状態から首だけで──本多を乗せたまま──倒立したのだ!
本多は、バネで弾き出されるピンボールの球のように、吹っ飛ばされた。
本多の体は、数メートル空中を飛んだあと、鉄筋コンクリート製の柱にぶつかって、床に落ちた。
柱にぶつかった衝撃で肺が硬直して呼吸ができなかった。それに肋骨が何本か折れたようだ。
コンクリートに打ちつけられたダメージで体を動かすことができない。いま追い討ちをかけられたら終わる。そしてそれを見逃す蜘蛛ではないだろう。
そのとき、ドスの利いたバカデカイ声が五階フロアに響きわたった。
「漢安喰只今参上! ミッチャン! 助太刀にきたでェ!」




