17 遺体保管用冷凍庫
安喰の黒塗りの高級地上車が停まったのは新大久保にある廃ビルの前だった。コンダルのリーダー、キム・ソンギュンに指定された場所だ。元々商業施設が入っていたらしくかなり大きい建物だ。現在一階部分はフェンス柵で覆われていて、中に入れないようになっている。
後部座席の本多は隣のシュリに言った。
「君はここで待っていてくれ」
この建物の中にシュリの本体がいるという。シュリ自身、自分がどういう状態でいるのか、を知るのが怖かった。
「本多さん、お願いします」
助手席の安喰は運転手の組員に言った。
「蒲田、お前もここで待っとれ」
「いえ、親父に何かあったらいけません。自分も一緒に行きます」
「アホ。ミッチャンが一緒なんや、お前なんぞおってもおらんくても同じや。それよりも、万一なにかあったときにシュリちゃんを誰が守んねん。お前は残れ。わかったな」
「……はい、わかりました」蒲田は渋々了解した。
車を降りた本多と安喰は入口を探して廃ビルのまわりの調べることにした。車を停めた道路沿いはフェンス柵に遮られて中に入れそうもなかった。
二人は廃ビルと隣のビルに挟まれた細い道をみつけた。街灯の光も届かない暗い道だ。しかしそこにもフェンス柵はつづいていた。
「あ、そうや」安喰はおもいだしたように腰からハンドガンを一丁抜いた。「ミッチャン、武器ないやろ。一応コレもっとき」
そう言いながらハンドガンを本多にわたした。
「ミッチャン、コレ好きやったろ」
「M 1911か」
二百年以上前に発明され、現在でもその設計のままつかわれているハンドガンだ。残段数と安全装置を確認してから腰に差した。
「たすかる」
本多と安喰は廃ビルと隣のビルに挟まれた細く暗い道を進む。すると人影がひとつあらわれた。
「安喰さん、こちらです」影が言った。
「キムか」と安喰。
「はい」と声が返ってきて影は消えた。
影が消えた場所をよく見ると、フェンスとフェンスの間に人ひとりが通れるほどの隙間ができていた。本多と安喰は体をすべらせるようにしてフェンスの間を通り抜けて廃ビルの敷地内に入った。
光だ──開け放したドアから建物内の光が漏れているようだ。
廃ビル内に入ると男が立っていた。この男がコンダルのリーダー、キム・ソンギュンか。おもっていたよりも若い。
「一人なんか? 他の奴らはどうした」安喰が訊いた。
「仲間とは、はぐれました」
「お前まさか、仲間見捨てたんとちゃうやろな」
「……」
安喰は「ゲスが」と言って唾を吐き棄てた。安喰が殴りかかりそうな勢いでキムに近づく。しかしそこに本多が割って入り、安喰を止めた。本多は目で安喰を制した。安喰も「すまん。それどころやなかったの」と手を挙げた。
本多はキムに向き直り「真城シュリはどこだ」と訊いた。
キムは怯えた犬のように震えていた。
「こ、こっちです」
廃ビル内は荒れ放題に荒れていた。おそらく何十年も放置されていたのだろう、商品の並んでいない陳列棚や不法投棄されたゴミが散乱していた。
本多たちはキムに促されて止まっているエスカレーターを上り、二階フロアに出た。二階も一階同様にかなり荒れていた。本多は素早く視線を配ったがシュリの姿はどこにもなかった。不安が大きくなる。
二階フロアを奥に進むと業務用冷蔵庫のような物体がポツンと置かれているのが見えた。赤いランプが点灯していることからどうやらそれは駆動しているようだ。後ろから伸びた太いケーブルでどこかから電力を盗んでいるのだろう。
近くでみるとステンレスの銀色が経年劣化で色あせているが本物の業務用冷蔵庫のようだった。高さも幅も二メートルほどあったが、業務用冷蔵庫と違うのは奥行きも二メートル以上あるところだった。それは巨大な正六面体だった。
──本多はこの物体が何であるかを知っていた。仕事柄、何度か目にしたことがあったから──
キムは巨大立方体の前に立った。立方体の前面には一メートル四方の扉が上下に二枚あり、どちらにも電子ロックが取り付けられていて簡単には開かないようになっていた。キムがパスワードを打ち込むとロックが解除された。
──本多は、虚脱感に襲われた。打ちひしがれた。
「二週間くらい前に匿名の依頼がありました。報酬の割には簡単な仕事だったので俺は喜んで仕事を受けました。しかも依頼主のほうで対象をこっちの指定した場所まで誘導するとかで、実際俺らがやる仕事は対象を『わかば』で眠らせてここに連れてくるだけでした」
キムは上下二枚の扉のうち下の扉を開け、中からトレイを引っ張り出した。トレイの上にはなにかの塊が載っていた。
「その依頼主ってのが変わった奴で、『できるだけ怖がらせないでほしい』だの『できるだけ苦しめないでほしい』だの、そんな注文がついてました。だからクロロホルムで眠らせてそのままここに入れたんです」
──本多は知っていた。これが遺体保管用冷凍庫だということを。
大きなトレイの上に一人の少女がカチカチに凍った状態で横たわっていた。本多は少女の顔を覗きこむ。シュリだ。眼鏡をかけていること以外は本多が知っているシュリとまったく同じ容貌だった。
遺体保管用冷凍庫はコールドスリープのカプセルではない。ただの冷凍庫なのだ。代謝や呼吸の繊細な管理をしてくれるわけではない。扉を閉めれば密閉され乱暴に冷却されるだけだ。シュリが生き返ることはない。
「それホンマか? 本当に傷ひとつ付けとらんやろな」安喰が訊いた。
「本当です。調べてもらえればわかります」キムは慌てて言い訳した。「サイボーグが当たり前になった今じゃ生の人体が売れるんスよ。しかも若い女のものなら尚更だ。傷なんか付けたら価値が下がっちまいます」
「なんや、売るつもりやったんか」
「いえ、ま、最初はそんなことを考えてました」
「それから? なにやらかした」
「いえ、とくには、俺らの仕事はそこまででしたから」
「んなわけないやろ。そんならなんでお前らが狙われとんねん」
「そ、それは……」キムは一層オドオドとした。「この女がマシロ・コーポの社長の娘だと知ったのは一昨日のことです。それで欲が出ちまったんです。マシロからもっと金を引き出せるんじゃないかって」
「お前ほんまアホやの。殺しといて身代金を取ろうとしたんか。そもそも身代金が手に入る成功率なんてほぼゼロなんやで」
「そ、そうなんスか」
安喰は顎に手を当てて推理を披露した。
「そうなると、お前らを殺してまわってるのはマシロが雇った殺し屋、ちゅうことになるんかな。どう思う、ミッチャ──あ」
安喰が気づいたときにはもう遅く、すでに本多の拳がキムの顔面にめり込んでいた。キムの体は吹っ飛び、ゴロゴロと床に転がった。
意識までは飛んでいなかったようで、キムがうつ伏せの状態から体を起こそうとすると、びちゃびちゃと音を立てて血が滴り落ち、床を濡らした。鼻の骨と前歯が何本か折れたようだ。
本多がゆっくりとした足取りで近づいてくる。
「あががっ」
キムは恐怖で震えた。
キムを見下ろして本多は言った。
「殺しはしない。探偵は職務規定の遵守が義務付けられているからな。約束通りお前を留置所に入れてやる。だがその前に訊きたいことがある。依頼主は誰だ」
「わがらだい」鼻に血が貯まってうまく喋れないようだ。
「匿名だと言ってたな。どうやって依頼してきたんだ」
「おでの端末に直接メールをおぐってきた。でも証拠はだい。時限爆弾メールだと言っでいだ」
ここでも時限爆弾メール、か──
のちの調べで判明したことだが、キムの端末に事件の痕跡はなかった。受信だけでなく返信したメールも消滅していた。
そのときだ! 緊迫した空気を引き裂くような音が外からきこえてきた。タイヤがアスファルトを引っ掻く鋭い音だ。しばらくのち、今度は廃ビルがグラグラと揺れ、凄まじい轟音が耳を劈いた。
地震か、いや、違う。下だ! 下の階で何かが起きたようだった。
× × ×
シュリは後部座席で本多の帰りを待っていた。運転席の蒲田という男は無口で、シュリも人見知りだったため、車のなかは静かだった。
時刻は夜中の零時過ぎ。車の外も静寂につつまれていた。新大久保の街はまるでゴーストタウンのように静まりかえり、暖色の街灯が等間隔に照らしている道を歩く人影はない。
シュリの視界の端──車窓のそとをなにかの影がふわっと横切ったような気がして、シュリは瞳を動かした。なにもない。
──気のせい?
次の瞬間、運転席の窓ガラスが鈍い音をたてた。窓ガラスを突き破り黒い腕が伸びてきたのがみえた。その腕は運転席の蒲田の胸ぐらをつかんだ。
「ぐぁあ」蒲田が苦しそうにうめく。
シュリは恐怖で声をあげることもできなかった。
「あら、奇遇ね、また会えるなんて。なりすましチャン」
と声がした。シュリは視線を上げる。蒲田を絞め上げている腕の先に黒のボディースーツを着たあの女がいた。本多の事務所で襲ってきたあの殺し屋の女だ。
蒲田はおもいっきりアクセルを踏んだ。
キュルルルルルルッ──タイヤがアスファルトを引っ掻く鋭い音がした。車が急発進する。
しかし殺し屋は車に引きずられたながらも手を離さず、さらに蒲田の首をつよく絞めた。
蒲田は急ハンドルを切る。遠心力で殺し屋の体は宙に浮いたがそれでも手を離さない。一層、蒲田の首に食い込むだけだ。
蒲田は意識が遠のくの感じた。意識が途切れる刹那、蒲田は本多たちが入っていった廃ビルに車を突っ込ませた。