12 『ERROR』
自宅のだいぶ手前でシュリはタクシーを降りた。すこし歩きたい気分だった。
通りには誰もいなかった。夕陽がシュリの影を長く伸ばしている。ここは、ネオ東京最上層の建造物内の住宅地だが、日光はちゃんと届くのだ。
(今日はなんだか疲れたな……)
「ははは」シュリは笑った。
アンドロイドの体が疲れるわけないのにね、と思うと可笑しかったのだ。
(いろいろあって心が疲れちゃったのかな)
とぼとぼ歩きながらシュリはそんなことを思った。実際、今日起きた出来事はシュリの日常生活から随分かけ離れていた。不穏な地下街、ギャング、喧嘩──刺激が強過ぎたのかもしれない。
遠くに見慣れた黒い門が見える。こんなに広いのに誰もいない家。小さい頃からそのことに疑問を持ったことはない。シュリの周りにはロボットたちがいたし、淋しさを感じることはほとんどなかった。でもそれは、この環境しか知らないせいかもしれない。本当の気持ちに蓋をして疑問を持たないようにしているだけかもしれない。
普段はこんなこと考えないのに、今日はすこしセンチメンタルになっているのかな、とシュリは自己分析した。
黒い門の横の巨大な白い塀に設置されている生体認証機の前にシュリは立った。
「ビー」という電子音とともに『ERROR』の文字がモニターに表示された。
「え?」
もう一度、カメラを覗き、センサーに親指を当てた。
「ビー」
『ERROR』
四回試したが駄目だった。
(なんで? これじゃ家に入れない)
シュリは端末を取り出した。生体認証が正常に反応しなかったときの代替手段としてネットワークからセキュリティーシステムにアクセスできるようになっている。スペアキーだ。
しかしそちらも駄目だった。IDとパスワードを手動で入力してもログインを弾かれた。
(なにかがおかしい……)
シュリの周囲に不穏さがにじり寄ってくるような感覚──
試しに他のシステムにもログインしてみた。すべて『ERROR』だった。
どうやらシュリ権限のすべての認証システムが無効になっているようだ。
「シュリ様」
突然背後から声をかけられシュリは飛び上がらんばかりに驚いた。
そこにいたのはシュリも顔を知っているSPの男だった。黒いスーツの上からでも隆起した筋肉の形がわかるほど体格がいい。名前はたしか、ハマモトだったか。
「ハマ……モトさん?」
「シュリ様、代表がお待ちです」
〝代表〟とはシュリの父親、真城コウタロウのことだ。
「あの、なにかおかしいんです。認証エラーになって家に入れな──」
「車を用意してあります。参りましょう」ハマモトはシュリの言葉を遮って言った。
カッカッカッ──ハマモトの革靴の踵が鳴る。近づいてくるその硬い靴音とハマモトの有無を言わさぬ雰囲気にシュリは圧迫感を覚えた。
「お父さんが私を? 一体なんの用ですか?」
「わかりません。私はそれを知る立場にありませんので。代表はお忙しい方です。急ぎましょう」
「……わかりました」
シュリはハマモトの後ろについていった。
(おかしいおかしいおかしい……)心のなかで警告の声がリフレインする。いままでのシュリなら大人しく従っていただろう。しかし今は『絶対について行ってはいけない』と強く感じる。情報思念体になって霊感を獲得したのかもしれない。
すこし行くと路上に黒塗りのセダンが停めてあるのが見えた。車の中に人影はない。ハマモト一人らしい。
シュリは通りに出た瞬間、車があるのとは逆の方向に走った。ハマモトもすぐに気づき無言で追いかけてきた。無言なところがシュリの恐怖を煽った。
運動が苦手な普段のシュリならあっという間に捕まっていただろう。しかし今のシュリの体はマシロ製最先端アンドロイドのそれなのだ。身体機能も抜群だ。
ぐんぐんと加速していく。
「うわうわうわ!」
その速度にシュリ自身が一番驚いた。
追いかけるハマモトはどんどん引き離されていった。ハマモトは追いかけるのを諦め、ホルダーからハンドガンを抜いた。
「止まれ!」
間髪入れずに発砲した。弾丸はアスファルトを跳ねた。威嚇射撃だ。
「きゃああああ! 撃ってきたああ!」
「止まれ! 次は当てる!」
「ひいいいいい!」
脚の回転速度がさらに上がった。〝パン〟という乾いた音が後ろで聞こえた。と同時にシュリの顔の横を〝ピュン〟となにかが掠った。
「!!!!」
シュリの後ろ姿は遥か遠くに消えた。
「ハアハアハア……なんて速さだ……」ハマモトは呆れて言った。
銃を仕舞い、端末を取り出す。
「対象者が逃走。繰り返す。対象者が逃走。服装の特徴はグレーのパーカーにブルージーンズ、白のスニーカー。ただちに包囲網を展開せよ。ただちに包囲網を展開せよ」
× × ×
ネオ東京最上層全域に、マシロ・コーポレーションと提携しているセキュリティー会社による検問がすぐに敷かれた。住宅地エリアの各ゲートや路線バス、層間昇降機などの要所は押さえられ、各所で最上層外へ出る人々を監視している。車の運転ができない真城シュリにとってバスや層間昇降機をつかわず最上層外へ出ることは不可能だ。出口の監視と並行して最上層内の捜索も行われている。真城シュリが発見されるのも時間の問題だろう。
住宅地エリア第三ゲート──
普段なら、〝外から入ってくる人間〟を厳しくチェックしているが〝外へ出ていこうとする人間〟に関してはほぼスルーだ。しかし今は逆だ。〝外へ出ていこうとする人間〟は一人一人、厳重な検問を受けた。
検問の列の中、目深にフードを被った人物がいた。グレーのパーカー、ブルージーンズ、白いスニーカー。
検問をしている二人の警備員がその人物に気がついた。二人は目配せをする。当該者の服装の特徴と一致する。二人はその人物に声をかけた。
「すみません。検問にご協力ください」
「……」人物は何も答えなかった。
「恐れ入りますが、顔を見せていただきますか」
「……」
しかしその人物はなかなかフードを下ろそうとしない。しかもそわそわとして、落ち着きがなく、挙動不審だった。
「おい。フードを取れ」警備員は命令口調で言った。
その人物はゆっくりとフードを下ろした。肩まで伸びた髪の毛がふわりと揺れた。
その顔は──警備員たちが期待していたものではなかった。中年男の疲れた下膨れの顔が出てきたのだ。
「どうかしましたか。なにか事件でもあったんですか」
男はガラガラの声で警備員たちに訊いた。
警備員は配布されていたシュリの顔写真を確認するまでもなく、
「いえ、なんでもありません。大変失礼しました。ご協力に感謝します」
と言い残して去っていった。
「……ふう」男は息は吐いた。
男は変装したシュリだった。シュリが開発した『スライムスキン』によって顔と体型を変えたのだ。
(とりあえず検問はパスできたけど……この先どうしよう……)
シュリは途方に暮れた。なぜかわからないが自分は追われているらしい。なにはともあれ、まず最上層から脱出しなければならない。
「本多さん……」
真っ先に本多の顔が浮かんだ。この状況でシュリが頼れるのは本多しかいない。本多さんに連絡しよう、とシュリは端末を取り出してコールしようとしたが寸前で思い止まった。
「だめだ」
おそらくシュリの端末は監視されているだろう。電波を出した途端、場所を特定されてしまう。念のためシュリは端末の電源を切った。
同じ理由でクレジットも使用できないだろう。クレジットを使えば痕跡を残してしまう。いやもしかしたら、シュリ名義のクレジットはすでに使用不可になっているかもしれない。その可能性は高い。
シュリは持っている現金を確認した。心許ない金額だ。少なくとも運賃が高額な反重力場機関の路線バスには乗れない。
シュリは現金で層間昇降機のチケットを購入した。第0層まで降りて、あとは電車を使って旧市街に入るしかない。
(なんで?)
シュリは思う。なぜ自分が追われているのか。何度考えてみてもその理由が思い当たらない。シュリには助けが必要だった。
(はやく……はやく本多さんのところに行かないと)
シュリは層間昇降機の改札へ急いだ。