魔法の水
ある絵に触発されて書きました。
魔法の水。
一見、なんの変哲もない、無色透明なただの水。
大きめの丸型フラスコの瓶の口をコルクで栓しているだけの、ただの水。
しかしこれは、魔法の水なのだという。
しかも、これを売り付けてきた老婆の言を借りれば、この水は男にとって必要なのだという。
酒場で安酒をひっかけていい気分になるよりは高く。
さりとて、本当に魔法を引き起こすには、あまりにも安い額で売り付けられたこの水。
丸型フラスコの瓶の口を持ち、軽く振る。
チャパチャパと、水が揺れる音がする。
ふと、後ろを振り向く。
老婆から魔法の水を買い取り、視線を逸らしたら、テントも、商品が並んでいたテーブルも、老婆も消えてなくなっていた。
もう一度、老婆が居た街のはずれを見たら、視線の先にまた老婆が居るだろうかと思ったが、そんなことはなく。
男は、魔性の存在に騙されたのだろうかと、ため息を吐く。
その手には、魔法の水が入っているという、丸型フラスコの瓶。
そも、魔法とはなにか?
その神秘の一端に触れようとして、叶わなかったことのある男には、一応、おぼろげながら、ほんの少しだけ、分かっていた。
魔法とは、奇跡である。
魔法とは、神秘の極致にあるものである。
本来なら、人が触れることなど叶わない、奇跡の一端である。
その奇跡を、人が再現しようとしたのが、魔術なのだという。
なにもないところに火が生まれたなら、
翼なき人が空を飛べたなら、
大海を割り海の底を歩けたなら。
そんな奇跡を、触媒を用意し、陣を敷き、手印を組み、長い呪文を唱え、魔力と呼ばれる内なる力を練り上げる。
そうやって、奇跡の、ほんの一端を再現するのが魔術なのだという。
魔法と、魔術とを、多少なりともかじった男には、魔法の水と呼ばれたそれは、触媒にすら見えなかった。
本当に、ただの水にしか見えなかった。
この魔法の水が、ただの一度しか起こせない奇跡の道具であるなら、ここぞという時しか使えない。
しかしこれは、水だ。
水の量だけ、魔法が使えるのだという。
怪しげな老婆の言を信じるならば。
ならば、試すしかあるまい。
その思いで、街を出て、荒野の岩場までやって来たのだ。
ここで、一つ考える。
何をもって、魔法と確信するか。
水で起こせる奇跡は、なにがあるか。
水を酒に変えるか、
あるいは、毒に変えるか、
または、不老長寿の妙薬とするか。
水は、潤すもの。濡らすもの。火を消すもの。
その水で、炎が燃え上がったら、魔法と呼べるのではないだろうか。
そうだ、それがいい。
水で、火を熾す。
それをもって、魔法としよう。
この水は、魔法の水なのだと。
荒野の岩場に隠れるように、移動する。
周囲の目がないことを確認してから、コルク栓を引っこ抜き、乾いた大地に魔法の水をこぼす。
燃えろ。
その意思一つで、荒野に染み込んだ水は燃え上がった。
こぼした水の何倍もの量の油をぶちまけたような勢いで燃え上がる炎を見て、その熱を浴びて、感じて、ひきつった笑みがこぼれた。
そして、これは本当に魔法の水なのだと確認がとれた。
しかし、油をぶちまけたより長く燃える炎を見て、ふと、不安を覚える。
この炎、いつ消えるのか? と。
消えろ。
明確な意思をもって、念じれば。
炎は、まばたき一つにも満たない時間で消え失せた。
熱も、煤も、燃え跡も残さずに消えてなくなった。
最初から、そんなものなどなかったように。
※※※
街に戻った男は、丸型フラスコの瓶を自然な風を装って……その実、誰が見ても不自然に……隠しながら、自宅までビクビク怯え帰路に着く。
先ほどの実験により、魔法の水は本当に魔法を引き起こすのだということが証明された。
そこでまた、怪しげな老婆の言を思い出す。
この魔法の水は、男にとって必要なものなのだということを。
では、どう必要になってくるのか、考えを巡らす。
……が、あまり頭のよくない男には、どれだけ考えてもよく分からなかった。
では、どう使えば役に立つかを考えてみる。
魔法を熾す水。
先ほどのように、油も持たずに火を点けることができる。
それも、男の意思一つで。
であれば、意思一つで水は毒にもなるだろう。
毒といえば、暗殺だ。
誰かを殺して、恩を売る。
これでいこう、これしかないと、軽い考えで毒で暗殺に決まった。
では、誰を暗殺しようか。
人のよい善人か?
それとも、煙たがられている悪人か?
殺して、より喜ばれる方を暗殺しよう。
そして、自分に疑いが向かないようにしつつ、男が暗殺したのだと証明できるようにもしよう。
どうやって毒を飲ます?
酒に混ぜるか。
どうやって酒を飲ます?
本人でなくてもいいだろう。
近親者に飲ませて、目標に近づいたら効果を発揮する毒にすればいい。
なぜならこれは、魔法の水。
魔法という奇跡を成す水なのだから。
殺すなら、誰も悲しまない悪党の方がいい。
街を騒がすクズどもの、親玉を殺ろう。
よそから来た荒くれ者どもは、いつも街のみんなを武器と魔術で威嚇し、空き箱を蹴飛ばして怒号をあげている。
みんな迷惑している。
自警団を気取って、タダ飯を食らい、他の客を追い出して酒を呑んでいる。
男も何度か尻を蹴飛ばされた。
そうだ。それがいい。
男は軽い調子で決意する。
今すぐにでも、下っぱに声をかけて酒を呑ませるふりをして魔法の水を飲ませよう。
そして、時間と共に毒へと変わるように念じ、あの邪魔な荒くれ者どもを一掃しよう。
そうすれば、みんな幸せだ。ハッピーになれる。
そうだ、そうしよう。そうと決まれば。
……そこで、男は、街の様子がおかしいことに気づいた。
月も見えない曇りの夜空が、妙に明るい。
どこか遠くで、叫ぶ声が聞こえた気がする。
荒野の乾いた風が、微かな熱を運んできた。
火事だった。
男は、火の手が上がる方向へ走る。
そちらには、男の家があった。
両親と未婚の姉弟が住む、自宅が。
家族の無事を確認するべく、自宅へ急ぐ男の目に、驚きの光景が広がっていた。
街のみんなに迷惑をかける、邪魔な荒くれ者ども。
そう思っていた連中が、手印を組み触媒をふりかけ呪文を唱えて、水の魔術を発動させていた。
あいつも、あいつも、男をいじめた悪党だ。
証拠を残さないように、けがをさせない程度で殴る蹴るして小銭を巻き上げていったクズだ。
……にも、かかわらず。
高価な触媒を惜しげもなく使い、水の魔術を発動させて、荒野の風に煽られて渦を巻く火災旋風を消火しようと必死になっていた。
激しく火の粉が降り注ぎ、自身を焼くのを恐れずに。
あいつも、あいつも、男をいじめた悪党だ。
うだつがあがらないヤツと、他に人がいる前で、男の尊厳を踏みにじったクズだ。
……にも、かかわらず。
触媒を自身にふりかけ、耐火の魔術を発動させて、燃え盛る建物に飛び込み、逃げ遅れた幼子を上着に包んで助け出していた。
自身が燃えることも構わずに。
男の足が止まる。
炎の中から助け出した子どもを別の者に預け、自身を焼く火を消すために、地面を転がる荒くれ者を見て。
触媒が無くなっても構わずに、手印を組み呪文を唱えて不完全な魔術を発動させて、何度も水を生み出して、勢いを増す炎を鎮めようとする自警団気取りのクズどもを見て。
少しの間、足を止めた。
そしてまた、走り出す。
自宅に着く頃には、乾いた風に煽られ、家から家へと燃え広がっていく炎が、男の自宅に襲いかからんとしていた。
事態に気づき、飛び出してくる男の父と姉。
足の悪い母と、寝たら朝まで起きない弟は、火が燃え移った家の中だろうか?
その事に気づいた父が、母の名を叫びながら燃えはじめた自宅に飛び込む。
燃える。燃える。
両親は燃える家から出てこない。
燃える。燃える。
年の離れた弟は、避難していない。
燃える。燃える。
姉が、家族の名を叫び、悲鳴を上げる。
燃える。燃えていく。
家が、思い出が、家族が、
燃えていく。
男は叫んだ。
やめろ! 燃えるな! と。
炎は、止まらない。
家を、家族を、男の心を、焼き尽くしてもきっと止まらない。
なすすべなく、立ち尽くす男に、ふと、怪しげな老婆の言葉がよみがえる。
魔法の水は、男にとって必要なものなのだと。
躊躇なく、男はコルク栓を引き抜き、瓶をひっくり返して、叫んだ。
炎め、消え失せろ!
男の意思に、魔法の水が応えた。
地面にこぼれた魔法の水が、波紋のように広がり、燃え盛る家々に触れては、炎を消していく。
メラメラバチバチと凄まじい音を立てて燃えていた炎が、まばたき一つにも満たない時間で消え失せていった。
あとに残るのは、焼けた家の残骸と、逃げることができずに家に取り残されていた人たち。
その人たちも、火傷や煙を吸った影響はあるものの、無事だった。
夜の街を染め上げた大火は、消え失せた。
老婆より託された魔法の水が、大火を消し去った。
しかし、街としての被害は甚大だし、けが人も多数に及ぶが、荒くれ者のクズども改め、ウォルナッツ衛兵団の尽力により、死者は、奇跡的にゼロ。
住む家を失った者は多く、しばらくの間は、テントや野宿といった厳しい環境で過ごさないといけないだろうが、男にとっては、家族と間近で面と向かって接する機会にもなり、久方ぶりに落ち着いて話すことができた気がした。
夜が明ければ、街の復興の始まりだ。
まずは皆、燃えかすのような瓦礫の中から使えるものを引っ張り出すところから始めていて、ウォルナッツ衛兵団の術士たちは、そこら中にある炭や灰を触媒にして、燃え残りの柱や床材を新品の建材に変えていった。
大工も手が足りず、暇なものは皆駆り出され、魔術によって再生された建材を使い、家を建てていく。
井戸の無事を確認すれば、大きな歓声が上がり、大火事を聞き付けたとなり街からは、食料などの支援物資が届き、領主の遣いを名乗る伝令が馬を走らせ、復興のための資金を届けてくれる。
その度に、皆感謝し、誰彼構わず抱き合い、喜びあった。
男もまた、何かの役に立てばと、かつて修めようとして叶わなかった魔術を試みる。
触媒もなければ、呪文もうろ覚え。どんな魔術を使いたいかも曖昧で、内なる魔力の練り上げも足りない。
そんな状態では、魔術は正しく発動してくれるわけもなく。
荒野の乾いた風が、少し湿っただけに終わった。
その様子を、息を飲んで見ていた者たちは、わずかな失望と共に、次がんばればいいさと口々に男を励ましていく。
その中で、一人だけ、男に近寄っていく者がいた。
領主の遣いとして馬をとばしてきた伝令と共に到着した、領主お抱えの魔術師の女だ。
銀糸の立派な刺繍が施されたローブを身に纏う銀髪の女は、男に次々と質問していく。
名はなんというか、どこで魔術を修めたか、誰に師事したか、今の仕事と家族との関係はとか、色々と。
魔術師の女の、宝石のように美しい瞳に見入ってしまっている男は、のぼせ上がったように応対する。
それでも構わずに、魔術師の女は眼光鋭く男を見続けている。
そして、一つの答えを掴んだようだ。
魔術師の女は、男に手を伸ばし、男の胸に手をおいて、円と何かの模様を描くようにさすり始めた。
それがなんの呪いなのか、男には分からなかったが、魔術師の女のいう通りに手印を組み呪文を唱え魔術を行使する。
すると、先ほどとはまるで違い、水が満ちたバケツを二つ三つとひっくり返したような、結構な量の水を生み出すことができていた。
専用の触媒もなしに。
女は言う。これが、男が本来持っていた才能なのだと。
これまでは、ただ無知で勉強不足だったのだと。
きちんとした知識を持ち、決まった手順をたどれば、これだけのことはたやすいのだと。
その事実にうち震える男に、魔術師の女が提案する。
私の元で修行しないかと。
その才能を、正しく伸ばし正当に評価されるつもりはないかと。
その答えは、後の世が語っていた。
千変万化の水。
水から作り出される魔術の触媒にして、水だけでなく、火、風、土など、ありとあらゆる魔術の触媒になる、万能の触媒。
これを作り出した男は、生まれも育ちも平民で、修行時代に一度破門された遅咲きの秀才といわれている。
その男の側には、いつも銀髪の女性が寄り添っていたのだという。