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【第一章:ノブレス・オブリージュ③】

「起きて」


 終業の鐘の代わりに、彼女の声で目を覚ました。そうか、終業の鐘でも起きれなかったか。


「君、先生に指名されたのに寝てるから。先生が呆れていた」


「いいよ。落としたら別の単位を取ればいい」


「そんなことはない。君の名誉に傷がつく」


「傷って?」


「単位を落としまくった無能な落第生の烙印が」


「いいよ、特徴的で分かりやすい」


 マイペースに見える彼女は、意外と真面目だ。とはいえ、真面目でも真面目を強要する委員長気質ではない。真面目な部分は自分の中にだけ抑えて、あくまで周囲には自由にふるまわせる。見え方としてはマイペースだけど、自分にはストイックな人間だった。


 彼女の言葉は嫌味っぽくもなく、説教っぽくもない。それが良かった。


「次何限?」


「僕はもうないよ。から は?」


「私は三限から。一限空いてるね」


「図書館へ行く? 課題がたまっている」


「私は図書館で終わらせられる課題ないよ。授業見なきゃいけないから」


「でも三限まで暇だろう?」


 家が遠いんだから、帰るわけにもいかないだろう。


「うん。だからとりあえず図書館には行く」


 そう言い出した頃には、足は動き出していた。図書館は歩いて五分くらいのところにあった。


「授業、ちゃんとついていける?」


「まあ、読めば分かるよ。人が話してることって、大体どこかに書いてあるし、分からなかったら調べればいい」


「それはそうかも。でも、その人が研究してることはその人しか知らないかも」


「だったらそれでもいい。情報は公になるより前に必要になることはあまりない。分かるべきときに、分かればいいんだよ」


 なんだか適当に返せてしまえている自分がいた。少し恥ずかしい。


 彼女は、授業中に全く話を聞いていない僕が、単位を落とすことを心配をしているのだろうか。それこそ、無能な落第生の烙印を押されないように。


 それとも単に、彼女は僕を責めているのだろうか。他の生徒が真面目に…おそらく僕よりはましに授業を聞いているのに対して、ただ楽をしているだけの僕に怒っているのだろうか。


 はたまた、そんな自分を分かっておきながら、中途半端に出席している僕を冷笑しているのだろうか。

 彼女の考えは分からない。けど、今真っ先に分かるべきことは別にあった。


「席、空いてないね」


「ソファ使おうか」


「私は机は要らないから大丈夫だけど」


「僕も膝の上に置けばいける」


 うん、と小さく頷いて、彼女はソファを一つ選んだ。荷物だけ置くと、彼女は席を立って去っていった。おそらく、面白い本を探しに行ったのだろう。


 僕はパソコンを開いて、未提出課題を確認する。ここで右下の充電を確認して二割程度であれば、充電が無いことを言い訳に帰ってもいいんだけれど。


 結局、課題を進めることになった。


 今真っ先に終わらせられるのは、生物の課題か。


「地球に、酸素が存在しなかったら」


「面白いね」


 彼女は存外早く帰ってきた。本を二冊だけ持ってきていた。


「酸素がないと燃焼っていうシンプルなエネルギー生産ができないもんね。呼吸とか」


「うん。あとはなんだろう、オゾン層が生み出されないと紫外線が地表まで届いたり」


「紫外線はエネルギーが高いから、既存の物質を変質させちゃうんだっけ。だから、生物の基本原理である恒常性…つまり、その状態を維持しておくという性質を破壊してしまう。生物にとっては変化って、それだけ危険なんだ」


「詳しいね、数学科なのに」


「別に数学だけを勉強してきたわけじゃないから。でもさ、生物はそこには適応できなかったんだよね」


「そこって?」


「最初から変化してしまうことを想定して生きていれば、何かあったんじゃないかなって。つまり、対策を練る、ってこと」


「細胞単位ならアポトーシスとかがあるでしょ」


「そうだけど。もっと、変化に寛容な生き方っていうのはないの?」


 少し考えてみる。だけど、変化に寛容であるっていうことは…。


「無秩序でもいい、っていうことになっちゃう。生物はちゃんと、生物であることを示さなきゃいけない」


「恣意的な表現だね。生物であることを示さなきゃいけないんじゃなくて、生物であることを示せるものが生物だ」


「今のは言い方が悪かった。この生物であることを示すもの、つまりそれは遺伝子でもあり、恒常性でもあるんだけど、そういったものは形を変えずに継承されなければいけないものだから。これが変わってしまったとき、それはもう生物であることを示せなくなっちゃうかも」


「種として見たときも個体として見たときも、遺伝子として見たときもね」


 彼女は自分で選んできた本に目を通しながら、僕の意見に反応している。一方で僕も、自分の課題を書き進めながら彼女の質問に答えている。


 今度は、彼女が話題を提供した。


「論理には、意味で考えるものと形式で考えるものがある」


「というのは?」


「意味で考えるものは、その内容を吟味するもの。私は人間である、という問いに対して、私が人間かどうかを多面的に考察しながら検証していく。そしてその結果、私が人間であるかどうかが確定する。対して形式で考えるものは、その論理の形だけで結論がはっきりする。こう書かれているのなら間違い、というフォーマットが既に決まっているんだ。つまり、問いが立った時点で結論は決まっているんだ。いや、不完全性は考慮しないとだね」


「えっと、何が違う?」


「恣意的な問いをしよう。これは、論理とは無関係な話と思ってほしい。意味は思考が伴い、形式には思考が伴わないものとする。君は、どちらがより優れたアプローチだと思う?」


「意味かな。思考が伴わないと、ちゃんとその意義を確認できない。何のために何をどうしているのか、それが分かってはじめて生きる実感なんじゃない?」


「でも形式には正しさがある。そこに形式がある、それだけで物事は絶対に確立され、変化など起こらない」


「変化が起こらない…でもそんな形式、誰が与えてくれるわけ?」


「宇宙の神様だよ」


 え、と彼女の顔を見る。まったく冗談を言いそうもない彼女が、まったく冗談のつもりではなさそうに呟いた。


「冗談」


「あ、そう…」


 あまりの衝撃に、数秒間完全に手が止まっていた。彼女の言葉が冗談であることを認識できてから、ようやくまたレポートを書き進められた。


 ああ、そうか。まさしく今僕が字を打ち込んでいるアプローチは、形式なのかもしれない。


 ただ指を動かし、文章を進めていく。この作業があまりにも単調で、その行動の形式にのみ指図されている。


 しっかり意味を考えてみよう。僕はなぜこのレポートを書いていて、何を成し遂げたいのか。


 それが分かればきっと、もう少しマシなものを書けるだろう。


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