表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
28/40

【第一章:ノブレス・オブリージュ㉔】

「日が暮れたよ」


 彼女は僕が一向に作業進行を実現しないことに対して、怒りも悲しみもしない。ただそこで、僕を待ち続けているだけ。


 彼女の言う「日が暮れたよ」とは、催促ではない。彼女がベランダから感じる夕陽の沈みを、ただ説明しただけである。それ以上の意味を彼女は発しない。


「作業が進まないなら、気分転換に散歩でもいかが?」


「こんな時間に?」


「夜の散歩も悪くない。少しそこまで、どうかな」


 ただまあ、やっぱり作業を進められる気はしない。散歩に行って、多少精神が回復するのを待つしかないかもしれない。


 僕は彼女の提案に乗った。部屋の二人は淡々と家を出た。





 夜とはいえ、夏の夜は暑い。


 この辺りは住宅街になっているものの、車通りが少なくて暗い。


 ただ、空の星が見えるほど暗くはない。


「静かだね」


 散歩が始まった数分、はじめての会話。


「脳は休まってる気がする」


「無理してる?」


「から の頼みだからね。無理をしてでもがんばりたいと思えるんだ」


「それにどのように返せばいいのか、私には分からない。とにかく私が言えることは、君が努力している姿を見ているのが好きだということ」


 なんだか遠回しに褒められて、回復してきた脳が少し活発になった。


「それに、から の努力に比べれば」


「その評価は正しい?」


 横から彼女が顔を覗き込む。


「安易に謙遜するのは、お互いの名誉に傷がつく」


「でも、あの文章を書いているのは から でしょ? 読む側と書く側、どっちが大変かと言えば書く側だ」

「しかし君は前提知識がないままであの文章を読んでいる。それはとても大変なことだよ」


「じゃあ、どっちも大変だということで」


 前から、珍しく光が当てられる。車のヘッドライトだ。住宅街なのだから、車のひとつくらい通るのは当たり前だ。


 その光は道路を順に照らしていって、僕たちの隣を照らしてくれた。そのとき、僕の姿と、少し離れた彼女の姿を照らすはずなのだ。


 彼女は僕の隣にいなかった。


 さっきまで肩を並べていたはずの彼女の影は、ヘッドライトに照らされてようやく移動を確認できた。まるで石が転がるように、影は加速度を持って走り出した。


「駄目だ!」


 僕は咄嗟に手を伸ばす。幸運にも、彼女はまだ手の届く限界のうちにいた。関節の凹凸が手触りでもわかるくらい華奢な肩を右手で掴み、半ば放り投げるようにして歩道に引き寄せた。


 車は凄まじい摩擦音とともに僕たちの真横を通過し、少しして止まった。暗くて分からないけど、車窓から首が出て、注意を旨とする怒号が聞こえてきた。


「すいません」


 座り込む彼女に代わって、それなりに誠実な謝罪をする。車はまた走り出し、静かで、暗黒の世界が戻ってきた。


「ごめんなさい」


 彼女の言葉はとても小さくて、だけどそれは夏の夜を引き裂くほどに冷たかった。


 座り込んだままの彼女を見下ろすのが申し訳なくて、僕も一緒にしゃがんだ。狭い歩道は、ちょうど二人分の幅だった。


 彼女の言葉に返事はしなかった。けど、これ以上の弁明を求めているというわけでもない。


 ただ、この時間が過ぎ去っていくのを待っているだけだ。


 このまま夜が明けてしまってっも構わない。僕はただ、それまでに彼女の涙が乾くこと、それだけを願った。


 あそこで、星が輝いている。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ