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【第一章:ノブレス・オブリージュ⑪】

 昼過ぎ、太陽は南中高度少し手前。


 昼食を食べ終わって、ほどよく眠気に誘われている時分。しかし、次の体育で嫌でも目が覚めるだろう。


 一方で彼女は、そんな眠気にも耐え切れないようで、事前策を用意したというわけ。


「食後のコーヒーは素晴らしい。活気が湧き出てくる」


「体育の前なんだから、飲みすぎないように」


「何、多くて缶一つぶんだよ。中身が湧き出てくるか、それともどこかから湧き出てこないぶんには、ね」


 今日は特に借りを作ったわけじゃない。


 ……いや、ある。今日は危うく遅刻しそうになったんだった。


「でも、出席点はないんだし。遅刻しても何かあったわけじゃない」


「だが遅刻せずに参加したことで利益を享受している。その利益は、正しく還元されるべきだとは思わないか?」


 彼女は缶コーヒーをゆっくり回しながら、淡々と言った。


「詐欺師」


「騙しているわけではないだろう。これは正当な取引だよ、君」


 こういうとき、言いくるめられてしまうのが腹が立つ。だけどどこか、このやり取りは様式美でもあるような気がした。だから無性に腹を立てているわけではなく、腹を立てている様子にすら呆れてしまうのだ。


「ただ、やっぱり体育のことを考えるとそのあとでもいい。ひとまずはのんびり、草むらでも眺めていようじゃないか」


 大学構内のやたらと広い広場にベンチはない。だから、こうして草むらの上にぽつりと座っているわけだ。奥には広い池と噴水があって、人はこういうものを見るとやたらと大きい声で叫びたくなるものだ。夜中も無事、うるさい。


 ただし昼間の治安はとてもよく、こうして学生二人がのんびりと体を休めるにはうってつけの場所だった。普段は人が多くてうるさいのも、今学期は授業がない学生も多いのだろう、ほどよい賑やかさに囲まれていられる。


 草むら、という大雑把な言い方をしたけど、草にもたくさんある。例えば、普通の芝。芝だって強く生きている。あっちには爪草が、あっちにはハルジオンが。植物だけ見ても、まさしくこれはという雑草から、おやおやこれはという雑草まで、飽きのないレパートリーが生え揃っている。


 そしてそんな中を這い進む小さな生命もいる。一番小さく見えるのは、トビイロケアリだと思う。アブラムシなんかと一緒に暮らしているアリの仲間。それに混じってもうちょっと大きいのがクロヤマアリ。そこにずかずかとやってきたやたらと大きいアリがクロオオアリ。アリだけでも体の大きさがこんなに違う。だけど、誰が強い、誰が弱い、とは一概に言えない。彼らは彼らなりの領域を作って生きている。


 同じ黒色だけど、なんだかじたばたと歩いているやつもいる。このすばっしこいやつはゴキブリじゃなくてゴミムシダマシ。探そうと思えばどこにでもいるけど、それだけに興味深い甲虫。地面を走りながら餌を探す頑張り屋さんだ。


「北半球に生息する甲虫だね。幼虫はミールワーム」


「詳しいね。生物いけるの?」


「僅かにね」


 明らかに僅かではない。


「甲虫類の中で特に大きなグループといえばゾウムシ科だけど、大きなグループなだけあって多様性にも富んでいる。中でもキクイムシの一種は、アリやハチと同じような真社会性を持っていることもあるんだとか」


「そうなんだ。やっぱり、明らかに詳しい」


 冗談交じりに横顔を睨むと、彼女は手をひらひらさせて僕の顔を遠ざけた。


「付け焼刃だよ。ところで、社会性と言えば」


「いえば」


 今度はどんな雑学が出てくるんだろう、と半ば呆れていたところ。


「いや、なんでもないよ。今日はこの辺りにしておこう」


「どうして?」


「話は小出しにしておこう。そのほうが、後々の謎になる」


「どういうことなんだ……」


 明らかに混乱する素振りを僕が見せても、彼女は目を閉じて清々しく空を仰いでいる。まるで勝ち誇ったかのように……でも、そこに煙たさはなかった。やっぱり彼女の表情はこの上なく清々しくて、それがなんと幸せに見えることか。


 彼女はきっと、綺麗なものを見ている。


 彼女が目を丸くしたところは見たことがない。彼女が大きく口を開いたところは見たことがない。僕は、彼女の内側に何があるのかを全く知らない。だけど、彼女が目を閉じるとき、きっとその内側には、目に見えている以上に大きな景色が、そこに広がっているんだと分かる。


 分かる、というのは言い過ぎか。


「それじゃあ、次の時間まで水面を眺めていようか。静かに余暇を過ごそう」


 彼女のことを理解できる日なんて来るのだろうか。


 そして、そのことを彼女は望んでいるのだろうか。理解されたいと考えることは、彼女にもあるのだろうか。


 疑問は増すばかり。でも、疑問が浮かぶことは学びが重なってる証だ。


 そういうことを考えてさえいれば、次の時間まであっという間だ。

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